15代将軍になる

幕府の命で、将軍後見職に就いた慶喜。文久3年(1863)、攘夷を督促する朝廷に対し、自ら開国論を説くべく上洛しますが、尊攘運動の攻撃にさらされて失敗に終わります。その後、「8月18日の政変」で、京都から尊攘派が排除されると再び上洛。有志大名と共に朝議参与に命じられた慶喜。

幕政改革に乗り出そうとしますが、あくまで幕府中心の改革を主張した慶喜は、ほかの参与たちと対立してしまいます。その後も、参与たちとの仲が修繕されることはなく、元治元年(1864)、慶喜は禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく、朝廷が京都御所を警護するために設置した役職)に就きます。

それと同時に、将軍後見職を辞任し、慶喜は独自の権力を構築していきました。その後の慶応2年(1866)、「第二次長州征伐」で幕府軍が敗戦を重ねるうちに、将軍・家茂が亡くなってしまいます。家茂の死を受け、慶喜は徳川宗家を継承し、15代将軍に就任することとなったのです。

禁裏御守衛総督時代の慶喜

大政奉還を受け入れる

大奥や譜代大名から敬遠されていたこともあり、最後まで将軍職就任を躊躇していた慶喜。将軍になってからは、フランス公使・ロッシュの意見を参考にしながら、幕政の改革に乗り出しました。しかし、倒幕を目論む薩長との関係性はさらに悪化し、窮地に立たされてしまいます。

そのような中で、土佐藩が慶喜に対し、大政奉還を勧めます。悩み抜いた末、慶喜は土佐藩からの提案を受け入れることに。そして、慶応3年(1867)、慶喜は徳川家の立場を守るべく、大政奉還を行ったのです。

慶喜が行った大政奉還は、倒幕派の薩長にとって、かなり厄介な政策でした。依然として慶喜が頂点に君臨することで、自分たちの意のままに政治ができなくなるからです。そのため、倒幕派は「王政復古の大号令」を発し、幕府を介入させない新政府の樹立を宣言しました。

当然、慶喜は倒幕派の行動に反発。慶応4年(1868)1月、「鳥羽・伏見の戦い」で、激しく争うこととなったのです。

激動の時代を乗り越えた将軍・慶喜の人生

旧幕府軍と討幕軍が激突した、「鳥羽・伏見の戦い」。討幕軍の勢いに押された旧幕府軍は、大敗を喫してしまいます。これを受けて、慶喜は水戸で謹慎することとなり、徳川宗家の家督を田安亀之助(後の徳川家達)に譲って、静岡に移住しました。

船で大坂を脱出する慶喜を描いた錦絵(月岡芳年画) 
「鳥羽・伏見の戦い」で、旧幕府軍の敗北が決定的になり、慶喜は大坂を脱出して、江戸へと帰還した。

明治2年(1869)、新政府から謹慎を解かれた慶喜。激動の時代を生き抜いた慶喜はその後、写真撮影や狩猟に没頭し、穏やかな生活を送るようになります。西洋文化にも興味を持ち、晩年はパンとミルクを好んだと伝えられています。

猟装の慶喜(『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より) 
慶喜は狩猟を特に好み、狩鉄砲を使った狩猟に没頭していたとされる。

ようやく、平和な生活を送ることができた慶喜は、大正2年(1913)、77年の生涯に静かに幕を閉じました。

まとめ

15代将軍として、幕府の危機に立ち向かった一橋慶喜。幕府側は悪役のように見えてしまうこともありますが、彼らなりに日本の未来について考えていたと言えるのではないでしょうか? 慶喜もまた、将軍として日本の明るい未来をつくりたかったのかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『山川日本史小辞典』(山川出版社)

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