正純失脚の原因、「宇都宮城釣天井事件」

元和2年(1616)、家康が亡くなると葬礼や日光東照宮社の造営を指揮。同年、父・正信も失った正純は秀忠の側近として江戸に転任、年寄(のちの老中)に列せられました。さらには2万石を加増されて5万3000石の大名となり、元和5年(1619)10月には、亡き家康の遺命であるとして、宇都宮藩15万5000石への加増を受けます。正純はこの加増を断ったとされ、それが通らなかったことが大きな事件へと発展してしまいます。

その事件とは、元和8年(1622)の「宇都宮城釣天井(つりてんじょう)事件。宇都宮城に釣天井を仕掛けて秀忠の暗殺を謀ったとの疑いをかけられ、正純失脚のきっかけとなった出来事でした。釣天井とは、吊っている天井を切り落として下にいる者を圧殺するカラクリのことです。

宇都宮城 富士見櫓

その経緯はというと、秀忠は、家康の七回忌に日光東照宮へ参拝に行き、宇都宮城に宿泊する予定でした。しかし、なぜか夜通しの強行軍で江戸に戻りました。それは前・宇都宮城主の祖母である加賀御前(秀忠の姉・亀姫)より、宇都宮城の普請について密告があったからといわれています。

後日、秀忠は11の罪状を正純に突きつけました。正純は明快な答えを出しますが、鉄砲を無断で購入したこと、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたことなどの3か条については回答することができず、所領召し上げとなりました。のちに行なわれた幕府側の調査で、釣天井の存在は否定されたにもかかわらず、この沙汰が変わることはありませんでした。

秀忠が黒幕!? 正純、無念の最期

この出来事の黒幕は、宇都宮城を明け渡すことに納得のいかなかった加賀御前とも、秀忠側近で正純を疎ましく思っていた土井勝利(どい・かつとし)ともいわれています。また、家康の信任をかさに着て横暴なふるまいで秀忠の意に沿わず、政策上の対立の違いが改易の原因ともいわれています。ほかにも秀忠と加賀御前の共謀説まであるようです。実際、事件の背景には正純自身の慢心もあったのかもしれません。

しかし、無実の罪とはあまりに無念。改易となった正純に対して、秀忠は先代からの長年の忠勤により、改めて出羽由利郡に5万5000石を与えると命じましたが、謀反に覚えがない正純は固辞。秀忠は怒り、本多家は改易となったといわれます。正純は出羽(現在の秋田県)・横手へ流罪となって幽閉され、これにより家康時代の側近一派は完全に排斥されました。

本多正純は、日も当たらぬような横手城の屋敷にて、寛永14年(1637年)3月、さみしく生涯を終えました。ちなみに宇都宮城釣天井事件は、歌舞伎や講談の題材となり、広く庶民にも知られるほどインパクトのある出来事でした。

まとめ

頭脳明晰なエリートとして幕政の大物となった本多正純。そのことで妬まれ、また自らは固辞した宇都宮城への栄転によって、足元をすくわれたことは皮肉というほかありません。正純の歌「日だまりを恋しと思ううめもどき 日陰の赤を 見る人もなく」にはその心情がよく表れています。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/深井元惠(京都メディアライン)
HP: https://kyotomedialine.com FB

引用/参考文献
『世界大百科事典』(平凡社)

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