はじめに-本多正純とはどんな人物だったのか?
本多正純(ほんだ・まさずみ)は、徳川家康・秀忠の側近として、並ぶ者なきほどの権勢を誇った人物。しかし、後ろ盾を失ったとき、濡れ衣により無念にも失脚してしまいます。一体何があったのでしょうか。正純の人生を紐解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、頭脳明晰にして律儀でまっすぐな家康の側近(演:井上祐貴)として描かれます。
目次
はじめに−本多正純とはどんな人物だったのか?
本多正純が生きた時代
本多正純の足跡と主な出来事
まとめ
本多正純が生きた時代
本田正純は、戦国時代末期に生まれます。家康に仕えながら出奔していた父・正信(まさのぶ)の幕政復帰とともに、自身も家康の側近に。関ヶ原の戦い、家康による天下統一、大坂冬・夏の陣を経て、2代将軍・秀忠(ひでただ)の政権が安定するまで、参謀として幕府を支えました。
本多正純の足跡と主な出来事
本多正純は、永禄8年(1565)に生まれ、寛永14年(1637)に没しています。その生涯を主な出来事とともに辿ってみましょう。
家康には正純、秀忠には正信
本多正純は、永禄8年(1565)、本多正信の長男として三河に生まれました。本多正信といえば、家康・秀忠の側近にして参謀。しかしこの頃、三河一向一揆を鎮圧後に出奔していました。一説には一揆側に付いたとも。正純は母とともに、同じ家康の側近・大久保忠世(おおくぼ・ただよ)に保護されて育ちます。
やがて正信が忠世のとりなしで家康のもとに復帰すると、正純も家康の家臣として仕えるようになりました。明確ではありませんが17歳頃には、家康の文書の取次などを担っていたようです。
父と同じように知略に優れた正純を、家康は気に入ります。正純は慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いで家康に付き従い、東軍勝利のあと、実質上の西側の大将・石田三成が家康の大津の陣に連れて来られると、その身柄預かりを家康から命ぜられました。
その家康は、慶長8年(1603)、征夷大将軍となり、江戸に幕府を開きます。そしてわずか2年で駿府に隠居すると、将軍職を秀忠に譲って、自らは大御所となりました。このとき、父・正信は江戸にて秀忠を、正純は駿府にて家康を補佐。本多父子で徳川家を支えることとなりました。その様子は、後世、「父子あいならびて天下の権をとる」(新井白石)と評されたほどです。
大坂冬の陣では和平交渉を担当
慶長13年(1608)、下野国小山(おやま)藩3万3000石の大名となった正純は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣でもその才覚を発揮しました。
まず、豊臣方を指揮していた真田信繁(幸村)に、寝返りを持ちかけるなど暗躍。これは失敗しますが、双方の兵糧不足などもあり講和の道が探られると、その停戦交渉にあたったのが家康の側室・阿茶局(あちゃのつぼね)と正純。12月20日には和平が成立しました。
そのときの条件のひとつが、豊臣方の大坂城の堀を埋め立てること。正純は約束の外堀だけではなく、二の丸の堀まで埋め立て、大坂城は要塞の機能を失います。このため、続く大坂夏の陣で豊臣方は籠城することができず野戦に打って出て、滅亡へと向かいました。
【正純失脚の原因、「宇都宮城釣天井事件」。次ページに続きます】