文人・直江兼続の晩年
直接家康に謝罪したことで、存続が正式に認められた上杉氏。しかし、出羽米沢(現在の山形県東南部)30万石に減封されるなど、それまで所有していた広大な領土のほとんどを没収されることに。その後、景勝は米沢城(現在の山形県米沢市にあった城)に移り、米沢藩の初代藩主となります。
兼続は、引き続き執政として藩政確立の総指揮にあたり、景勝を支えました。武勇に秀でていたと言われる兼続ですが、学問にも高い関心を示していたそうです。文禄元年(1592)から始まった、秀吉の「朝鮮出兵」の際には、あらゆる漢籍を収集し、後に「直江版」と呼ばれる書籍を出版しています。
直江版は、日本で初めて銅活字(李氏朝鮮で実用化された活字)を用いて印刷された書籍で、当時はかなり画期的なものでした。また、米沢に禅林寺(現在の法泉寺)という臨済宗の寺院を開き、ここに米沢藩士の子弟を教育するための「禅林文庫」を設けています。
禅林文庫には、教育に必要な書物が多数集められ、後に成立する藩校・興譲館(こうじょうかん)にも受け継がれることとなりました。元和5年(1620)、60年の生涯に幕を閉じるまで、兼続は藩政の礎を築き上げるために、尽力し続けたのです。
まとめ
執政として、生涯を通して上杉氏を支え続けた直江兼続。強いだけでなく、非常に聡明な人物でもあったことが分かりました。武士にとって、武芸だけでなく学問も非常に重要であると、誰よりも強く信じていた人物だったとも言えるかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)