「関ケ原の戦い」で翻弄される
秀吉の死後、家政は彼の重臣・石田三成と対立することに。「関ケ原の戦い」の前年には、福島正則(まさのり)や黒田長政らとともに三成を襲撃しようとするなど、彼に対して強い敵意を持っていたことが分かります。しかし、慶長5年(1600)の「関ヶ原の戦い」では、西軍に属して大坂久太郎町橋(=現在の大阪市中央区)の警護にあたりました。
これは、家政の意思ではなく、西軍側が無理やり決めたことであると言われています。実際、家政は病気と称して出陣せず、息子の至鎮(よししげ)を東軍に送り込みました。家政としては、上からの指示であっても、対立する三成の配下に置かれることだけは、何としても避けたかったのかもしれません。
東軍の勝利で戦いが終わると、息子が味方として戦っていたということもあり、家政は本領を安堵されました。
徳島藩藩主として大往生を果たす
「関ケ原の戦い」勃発を受けて、家政はかつて秀吉から与えられた阿波の地を豊臣家に返上し、剃髪して高野山に入山していました。しかし、息子・至鎮が阿波国を与えられたため、家政はその後見役になることを幕府から命じられたのです。
その後、至鎮が先に没すると、家政はまだ幼い孫・忠英(ただてる)の後見役を務めることに。後見役として、徳島藩(阿波藩とも)の基礎を築き上げた家政。寛永15年(1639)、81年の生涯に幕を閉じるまで、家政は実質的に徳島藩の藩政を指揮し続けたのです。
まとめ
三英傑の時代を生き抜き、大往生を果たした蜂須賀家政。最後まで任務を全うしようとしたことから、強いだけでなく、非常に真面目で責任感のある人物だったことが分かります。家政によって基礎が固められた徳島藩は、その後「阿波藍」と呼ばれる染料を特売品として、栄えることとなるのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界大百科事典』(平凡社)