「四国攻め」の総大将を務める

天正10年(1582)に起こった「本能寺の変」により、信長が亡くなります。秀吉は、凄まじい勢いで京都に駆け付け、謀反を起こした光秀を滅ぼしました。信長の敵討ちに成功したことで、秀吉は織田家の家臣団の中でも強い権力を持つようになります。

ライバルたちを打ち負かし、天下統一に大きく駒を進めた秀吉。秀長は、秀吉とともに壮大な夢を実現させるべく、彼を懸命に支え続けました。天正13年(1585)の「四国攻め」の際には、総大将を務める予定だった秀吉が体調を崩してしまったため、代わりに秀長が総大将を務め、全国平定にむけて尽力します。

秀長に感謝した秀吉は、大和国(現在の奈良県)を彼に与えることに。これにより、秀長はそれまで治めていた紀伊国(現在の和歌山県)と和泉国(現在の大阪府南部)の64万石と大和国を含む、110万石を手に入れることになったのです。

縁の下の力持ちだった秀長の最期

秀吉のもとで、100万石以上を有する大大名へと成長した秀長。天正15年(1587)の「九州攻め」の際にも、先鋒を務めて勇猛果敢に戦い抜きました。しかし、秀長はこの頃から次第に体調を崩すようになっていきます。

秀吉は、病床に伏した弟を心配し、神仏への平癒祈願を懸命に行ったそうです。しかし、その甲斐むなしく、天正19年(1591)、秀長は大和国の郡山城(こおりやまじょう、現在の奈良県大和郡山市にあった城)にて、52年の生涯に幕を閉じたのでした。

秀長の墓所「大納言塚」(奈良県大和郡山市) 
九州攻めの後、秀長は従二位・権大納言に叙任される。大和国を治めたため、「大和大納言」と呼ばれるようになった。

まとめ

阿吽の呼吸で、秀吉とともに大きな夢を追い続けた羽柴秀長。秀長がいなければ、秀吉が天下統一を成し遂げることは難しかったと言えるでしょう。また、秀長の死後、秀吉は二度の朝鮮出兵に乗り出します。もし、秀長が病死していなければ、秀吉の晩年は全く違うものになっていたかもしれません。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)

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