はじめに-長宗我部元親とはどんな人物だったのか
土佐の長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)は、四国を統一した武将として有名な人物です。初陣では、わずか50騎で戦功をたてたと言われています。ついで、潮江城の攻略では周囲に無謀と諌められても、「城内に人はおらず。急ぎ攻め入れ」と進撃を命じたとか。その言葉通り、城に人はおらず、これ以降「土佐の出来人」と言われるようになりました。
そんな元親ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
目次
はじめに-長宗我部元親とはどんな人物だったのか
長宗我部元親が生きた時代
長宗我部元親の足跡と主な出来事
まとめ
長宗我部元親が生きた時代
長宗我部氏は戦国時代における土佐の戦国大名です。この頃、土佐では「土佐の七雄」と呼ばれる長宗我部氏を含む有力な大名と、一条氏(五摂家の一つ。応仁の乱を避けて土佐に避難し、国司になった)が勢力拡大のために争っていました。
長宗我部氏は七雄の中では、最も勢力が弱い存在でしたが、長宗我部元親が当主になって次々とライバルたちに打ち勝ち、土佐だけにとどまらず、四国を統一するまでに成長しました。
長宗我部元親の足跡と主な出来事
長宗我部元親は生年が天文8年(1539)で、没年が慶長4年(1599)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
幼少期
当初、元親は武将になるほど勇ましいというわけではなかったようです。少年時代は「姫和子(ひめわこ)」と呼ばれ、色白でおとなしかったとか。あまり戦場で活躍するとは思われていなかったようです。
ところが、初陣にて50騎をともなって奮戦、大きな戦果を上げました。さらには潮江城の攻略にも関わり、重臣たちが無謀であると諫言するも、元親は「城内に人はいない。急ぎ攻め入れ」と突入を命令。実際、城には誰もおらず、これをきっかけに元親は「土佐の出来人」と呼ばれるようになります。
四国制覇までの道のり
永禄3年(1560)に、家督を相続した元親は次々とライバルたちに打ち勝ち、従えていきます。そして、天正2年(1574)には土佐で大きな勢力を誇っていた一条兼定を追い、翌年に土佐の統一に成功。
さらには、阿波・伊予・讃岐にも出兵しています。織田信長とは関係が悪化し、信長の三男・信孝を総大将とする四国遠征軍が編成されましたが、その直前に起きた本能寺の変で信長が亡くなったことで、四国攻めは中止。こうして信長との戦闘は免れることになります。
元親はその後も四国の大名を破り続け、ついに天正13年(1585)の春、伊予の河野通直(こうの・みちなお)を降したことで四国を制覇します。
【豊臣秀吉への服属から亡くなるまで。次ページに続きます】