はじめに-長宗我部元親とはどんな人物だったのか

四国をほぼ手中におさめた戦国大名・長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか、演:磯部寛之)。土佐(現在の高知県)の一豪族から出発し、阿波(現在の徳島県)・讃岐(現在の香川県)・伊予(現在の愛媛県)へと勢力を広げ、ついには「四国制覇」に到達します。

ところが天正13年(1585)、豊臣秀吉(演:池松壮亮)の四国征伐の前に降伏し、許されたのは土佐一国だけ…。

勝ち続けたはずの男が、なぜ退く決断をしたのか。さらに戸次川(へつぎがわ)の戦いで長男・信親(のぶちか)を失って以降、元親の性格が一変したとも伝わります。天下統一のうねりの中で、元親が何を守り、何を手放したのか。史実に沿って、その歩みを辿っていきましょう。

2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、元は織田信長(演:小栗旬)と同盟を結んでいたが、やがて四国の有力な大名となり、織田氏と対立する人物として描かれます。

長宗我部元親
長宗我部元親

長宗我部元親が生きた時代

元親が生きたのは、戦国の争乱が全国規模で再編され、織田信長・豊臣秀吉へと「全国統一」の流れが加速していく時代です。

四国では、土佐・阿波・伊予・讃岐の各地に国人や在地勢力が割拠し、勢力図は流動的でした。元親は土佐統一を足がかりに四国統一へと動き、信長と対峙する局面も迎えますが、本能寺の変で情勢が一変。

その後は秀吉の四国征伐を受け、土佐一国の大名として豊臣政権下で国づくりへ軸足を移していきます。

長宗我部元親の足跡と主な出来事

長宗我部元親は生年が天文7年(1538)もしくは天文8年(1539)で、没年が慶長4年(1599)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。

誕生と家督相続

元親は、土佐国長岡郡岡豊(おこう)城(現在の高知県南国市)で生まれました。生年は、天文7年(1538)説と天文8年(1539)説が伝わります。幼名は弥三郎。幼少時は柔和な性格で「姫若子(ひめわこ)」と呼ばれ、色白で大人しかったそうです。

永禄3年(1560)に家督を継ぎ、土佐の有力勢力を従えながら領国拡大へ踏み出します。

土佐統一へ

永禄3年(1560)以後、弟や重臣らの協力を得ながら、本山・津野・安芸など土佐の諸勢力を従え、支配を広げていきます。

天正2年(1574)には幡多郡の土佐国司の一条兼定(いちじょう・かねさだ)を追うなどして、土佐統一へ大きく前進。翌天正3年(1575)には土佐統一に成功しました。

阿波・伊予・讃岐へ勢力拡大

土佐統一後、元親は阿波へ出兵し、ついで伊予・讃岐へと侵入していきます。本能寺の変が起きる前後には信長との対戦局面もありましたが、本能寺の変により信長との戦闘は免れました。

織田信長
織田信長

その後、阿波で十河存保(そごう・ながやす/まさやす)を破るなどして阿波を制圧し、讃岐の要地を攻略しながら四国統一へと歩を進めます。

四国制覇するも、秀吉の大軍が迫る…

天正13年(1585)春ごろには、伊予の河野通直(こうの・みちなお)を降すなどし、元親は四国全土を制覇しました。ただし、その状態は長くは続きませんでした。

元親は、賤ヶ岳の戦い(1583)で柴田勝家と、小牧・長久手の戦い(1584)では織田信雄・徳川家康と結び、豊臣秀吉を挟撃しようとします。そのため、天正13年(1585)夏、元親は秀吉の四国征伐にあうのです。

元親は降伏。領有を認められたのは土佐一国(石高は7万8000石とも)で、四国全土ではありませんでした。阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久と十河存保、伊予は小早川隆景に与えられることになりました。

このことは、元親にとって人生の大きな折り返し地点となります。

豊臣秀吉
豊臣秀吉

秀吉のもとでの戦

降伏後、元親は豊臣政権の一員として動きます。天正14年(1586)冬、九州に出兵し、豊後(現在の大分県)の戸次川で島津勢と戦って敗北。長男・信親が戦死しました。

この出来事以後、「元親の性格は一変した」と伝えられています。覇者としての勢いだけでは進めない時代に、元親自身の「統治者としての顔」が濃く出るのも、この後です。

元親の領国経営

元親は、領国統治を立て直す動きを強めます。

  • 天正15年(1587)9月ごろから検地を開始
  • 天正16年(1588)ごろ、居城を岡豊から大高坂(おおたかさか、現在の高知市)へ移す
  • 後継を四男・盛親(もりちか)と定め、反対した一族の吉良親実・比江山親興に切腹を命じる

さらにのちには、浦戸城(現在の高知市)へ移転しました。また元親は掟書(百箇条)を定め発布したとされ、政治・軍事のみならず、領国を制度で動かす方向へと舵を切ります。

小田原征伐、朝鮮出兵、そして伏見で死去

元親は秀吉の全国戦略にも参加します。

  • 天正18年(1590)小田原征伐に参加
  • 文禄・慶長の役に出兵
  • 慶長元年(1596)にはサン・フェリペ号(スペイン船の処置を巡り日本人とスペイン人の間に起きた紛争事件)の処理に関わる
名護屋城跡の陣跡配置図でも名古屋浦沿いに「長宗我部元親」の名が見える(赤枠で囲んだ部分)。

その後、慶長4年(1599)5月19日に伏見で死去しました。晩年まで中央政局の渦中に身を置きつつ、土佐の領国運営と向き合い続けた生涯だったといえます。

まとめ

長宗我部元親の人生は「土佐の統一」から始まり、「四国制覇」という頂点へと駆け上がり、そして秀吉の前に土佐一国へと退く、劇的な振れ幅を持つ歩みでした。

けれど、元親のすごさは、秀吉の四国征伐後も大名として生き残り、国を治める側へと立ち位置を変えていった点にあるのではないでしょうか。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/ぐう(京都メディアライン)
写真/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)

 

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