豊臣秀吉への服属から亡くなるまで
ところが、四国制覇した天正13年(1585)の夏、豊臣秀吉に攻められ、降伏してしまいます。これより以前に、元親は秀吉に対して敵対行為を繰り返していました。賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家、小牧・長久手の戦いでは徳川家康・織田信雄、紀伊征伐では根来衆と、秀吉に敵対する勢力と手を結んでいたのです。
これに業を煮やした秀吉は元親を攻めることを決意。元親は伊予一国を秀吉に渡すことで妥協しようとするも、秀吉は土佐以外の三国を引き渡すように命じたので、交渉は決裂しました。
そして、秀吉は弟の秀長を将として四国への出征を命令。宇喜多秀家、蜂須賀正勝、毛利輝元などの秀吉傘下の武将たちが阿波・讃岐・伊予など三方から元親を攻撃します。次々と城が陥落し、元親は7月25日に降伏しました。
戦後、元親は土佐一国を安堵され、元親の三男・親忠は人質に。また、阿波は蜂須賀家政、讃岐は仙石秀久と十河存保(そごう・まさやす)、伊予は小早川隆景に与えられることになりました。
天正14年(1586)には、秀吉の九州攻めに際して、島津攻撃の先鋒を務め、九州にも出兵。豊後で島津軍と交戦して敗北、長男・信親を失ったことで元親の性格が一変したと言います。天正16年(1588)には、居城を大高坂(高知市)に移し、四男・盛親(もりちか)を後継者とし、反対者を処刑しました。
その後、小田原攻めや朝鮮出兵に参加。従四位下少将にも任じられました。また、浦戸(高知市)に漂着したサン・フェリペ号にも対応したり、分国法「長宗我部氏掟書(長宗我部元親百箇条)」を制定したりしています。 慶長4年(1599)、三男・親忠を幽閉した後に病気療養のため上洛しますが、5月19日に伏見にて亡くなりました。
元親の人となり
元親は仏教や儒学を重んじ、和歌・連歌・茶道にも通じていたようです。また、山林保護のために竹木の伐採を規制したりするなど、領国支配にも熱心でした。
また、元親は一時期飲酒を規制していたことがありました。しかし、家臣が城に運ばれる酒樽を見て、「民に禁酒を命じて、自分が隠れて飲むとは道理にあわない」と諫言されたこともあります。そのことを反省した元親は禁酒令を解除したそうです。
まとめ
「姫和子」と呼ばれるほどおとなしかった長宗我部元親は、四国を制覇するまでに成長しました。そして、早くから都の文化の吸収につとめ、一門の者に習わせたといわれています。また、領内の検地を進め、法令を制定し、城下町を建設します。知略に長けた豊臣秀吉にはかなわず敗れ去りましたが、彼が四国に残したものは大きかったといえるのではないでしょうか。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
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