百地丹波にまつわる数々の伝説
伊賀流忍術の祖とも言われる、百地丹波。生没年不詳ということもあり、伝説の忍者として数々の逸話が残されています。信長との戦いでは最後まで生き残り、十数年後まで忍者として暗躍したという説や、釜茹での刑に処されたことで有名な石川五右衛門の師であるという説もありますが、真相はわかっていません。
伊賀市の喰代(ほおじろ)には、百地丹波の砦跡のほか、忍者が修行したとされる堀跡や空堀なども残されています。
まとめ
伝説の忍者として語られることが多い、百地丹波。明治末期から昭和初期にかけて刊行された「立川文庫」第55編『霧隠才蔵』では、霧隠才蔵(きりがくれ・さいぞう)が百地丹波の弟子となって訓練に励み、忍者名人として真田幸村に仕える様子が描かれています。
独自の忍術をもって伊賀国と忍者の世界を守った人物として、今日でも人気は高いと言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『世界⼤百科事典』(平凡社)