はじめに-百地丹波とはどんな人物だったのか?

百地丹波(ももち・たんば)とは、戦国時代の忍者で、伊賀三大上忍の一人です。「百地三太夫(さんだゆう)」と呼ばれることもありますが、こちらは伝承上の忍者になります。百地丹波についての史料は大変乏しく、詳しくはわかっていないことが多いのです。

1570年代に伊賀国(現在の三重県西部)にて権力を持っていた人物ということはわかっていますが、忍者としてどのような活動を行っていたのかという点は、今でも謎に包まれています。

服部家・藤林家とともに、伊賀の三大上忍として、忍者集団を統率していた百地丹波。伊賀流忍術の祖とも言われ、伝説の忍者というイメージも強いですが、実際の百地丹波はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、家康一行を捕らる伊賀の人物(演・嶋田久作)として描かれます。

目次
はじめに―百地丹波とはどんな人物だったのか?
百地丹波が生きた時代
百地丹波の足跡と主な出来事
まとめ

百地丹波が生きた時代

百地丹波は、生没年不詳です。1570年代に南伊賀にて活動していたと考えられています。この時代は、天下統一を夢見る信長が覇道を突き進んでいた時期にあたります。まもなく信長は伊賀にも出兵し、百地たちが守ってきた忍者世界の秩序を大きく乱してしまうのです。

百地丹波の足跡と主な出来事

百地丹波は、1570年代に忍者として活動していたと考えられています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。

伊賀で誕生、信長と交戦

百地丹波は、百地清右衛門の嫡男として、伊賀国名張で誕生したとされています。百地が生まれ育った伊賀は、周囲を切り立った断崖に囲まれていました。そのため、この地域に住む人々は野山を駆けているうちに、平野部に住んでいる人々と比べて足腰が丈夫になったと考えられているのです。

『北斎漫画』に登場する忍者

日々訓練を行い、戦国大名に奉仕することもあった伊賀忍者。伊賀忍者の世界は、一般人の暮らす世界と同じようにランクによって分類されていました。そのランクが、上忍・中忍・下忍です。下忍は、忍者世界の末端に位置する実戦要因であり、中忍が彼らを指揮する部隊長の役割を果たしていました。

そして、服部・藤林・百地の三家は、三大上忍として伊賀の忍者集団を統率していたのです。戦国時代には、藤林長門(ながと)が伊賀国内の北半分を支配し、百地丹波が南半分を治めていました。両者は抗争を繰り返しながらも、外敵の侵入などの非常事態には団結して戦い、伊賀忍者の自律性を堅持していたそうです。

しかし、天正9年(1581)、織田信長による伊賀征伐が始まります。百地をはじめ、伊賀の地侍は連合して対抗し、織田信雄の軍は撃退したものの、織田軍の圧倒的な軍勢を前に最終的に信長の手に落ちてしまいます。これ以降、伊賀忍者の自律性は失われ、帰農して農民としての生活を送るか、徳川家康や前田利家、福島正則など、各地の大名に家臣として雇用される者が大半を占めました。

百地丹波にまつわる数々の伝説。次ページに続きます

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