はじめに-山田八蔵とはどんな人物だったのか
山田八蔵(やまだ・はちぞう)は、武田方と内通してクーデターを画策していた大岡弥四郎(おおおか・やしろう)らを主君の松平信康(まつだいら・のぶやす)に密告して、陰謀を阻止した人物として有名です。「重英」と呼ばれることもあります。なお、八蔵に関する資料は多くありません。
そんな八蔵ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、勇猛な大男で弥四郎の企てに加わろうとするも、自身の傷の手当をする瀬名の慈愛に触れて、良心の呵責に悩む人物(演:米本学仁)として、描かれます。
目次
はじめに-山田八蔵とはどんな人物だったのか
山田八蔵が生きた時代
山田八蔵の足跡と主な出来事
まとめ
山田八蔵が生きた時代
戦国時代では、信義というものが成り立たず、敵との内通や裏切りは珍しいことではありませんでした。主君と家臣の関係は基本的に「御恩と奉公」で、恩賞として土地を与えることで家臣を統制していたのです。
そのため、戦いに勝てなくなって恩賞を与えることができなくなってくると、主君を見限って敵方の武将につく家臣も珍しくありませんでした。
主君からすれば、いつ裏切るかもしれない家臣に対して常に目を光らしておく必要があり、家臣からすれば、自身の出世や身の安全のためには誰に仕えるのが合理的なのかを常に見極めなければなりませんでした。
山田八蔵の足跡と主な出来事
山田八蔵の生年については不明ですが、没年は天正16年(1588)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
大岡弥四郎の陰謀に加わる
ある日、八蔵は小谷甚左衛門(こや・じんざえもん)に誘われて、岡崎で町奉行を勤めていた大岡弥四郎のある陰謀に関わることになります。
その陰謀とは、徳川の敵である武田勝頼(たけだ・かつより)と内通して、岡崎城主である松平信康を討ちとろうというものでした。信康は徳川家康の嫡男。家康から岡崎城を任されるほど信用されていました。その信康が討ちとられ、岡崎城まで武田に奪われるとなれば、それは家康にとって大打撃です。
こうした陰謀が計画されたのには、背景があります。一説によると、徳川の支配領域では、場所によって武田氏への態度に差がありました。遠江の浜松城を中心とする徳川領の東半分は、織田信長と連携して武田氏とあくまで戦う姿勢。一方の三河の岡崎城を中心とする徳川領の西半分は、武田氏との敵対関係を変えたい立場だったのです。
このような状況の中で、弥四郎らは武田と内通するための計画を練っていたとする説があります。クーデターのメンバーの一員となった八蔵も、やがては謀反を実行するはずだったのです。
信康にクーデターを密告する
ところが、八蔵は思わぬ行動をとります。考えを変えた八蔵は、クーデターのことを信康に密告。これによって謀反が明らかになり、弥四郎らは拘束されてしまいます。陰謀の中心人物であった弥四郎は見せしめのために岡崎城下と浜松城下で引き回され、鋸引きの極刑に処されることに……。その妻子も磔になりました。八蔵をクーデターに誘った甚左衛門は養子とともに三河から脱出しています。天正3年(1575)のことでした。
その後
クーデターを密告して未然に防いだとして、八蔵は恩賞を受けることになりました。加恩として、柿崎(現愛知県安城市)で500石を拝領しています。また、「訴人八蔵」とも呼ばれることに。
ただ、その後の展開はいいものではなかったようです。天正16年(1588)、八蔵は口論から渥美弥三郎に殺され、全所領は没収に。しかし、翌年、養子の重次が弥三郎への仇討ちに成功したことから、300石を給与され、山田家は復活しています。
まとめ
戦国時代には、自身の安全や将来のためにも家臣が主君を裏切ることはありました。しかし、謀反が発覚すれば命の保証はないうえ、成功してもその後も安泰というわけではなかったようです。
山田八蔵のクーデターへの参加から密告に至るまでのプロセスには、そうした家臣の苦悩が見えるのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)