東大教授の非職を命じられる
全国各地の植物を採集し続けた良吉は、東大の植物標本の基礎を築くこととなりました。そして、明治23年(1890)、『植物学雑誌』にて、これまで集めた標本や文献をもとにして、欧米の研究者に頼らず、自力で植物の記載を始めるということを宣言します。
植物標本を、海外の研究者に送って鑑定してもらうのが当たり前だった時代。良吉のこの決断は、周囲にかなりの衝撃を与えたと考えられます。その後、良吉は数々の論文を発表し、『日本植物図解』や『日本植物編』などの出版に乗り出しました。
植物学者として研究に励んでいた良吉でしたが、明治24年(1891)、東大教授の非職を命じられてしまいます。理由としては、羅馬字会・演劇改良会などを結成した急進的な啓蒙学者だったからとか、大学の研究者や関係者との不和があったからなどと考えられていますが、はっきりしたことはわかっていません。
良吉は、大学の権威を認めようとしなかったとされる富太郎の教室出入りを禁止したり、気に入らない相手を所かまわず批判したりと、激烈な性格で知られていたそうです。
突然大学から締め出されてしまった良吉。その後、英語担当の教員として高等師範学校に移り、4年後には校長を務めることになります。その直後、鎌倉由比ヶ浜で遊泳中に溺れてしまい、49年の生涯に幕を閉じることとなったのです。
まとめ
東京大学理学部の初代教授を務め、日本の植物学研究の発展に大きく貢献した良吉。教育面においても力を入れていた良吉は、教員が良質な教育を行うためには、専門分野の研究に取り組む必要があると考えていました。
大学締め出しという形で、良吉の植物学研究への道は絶たれてしまったようにも思えますが、彼が残した功績は、その後の研究者に多大な影響を与えたと言えるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞)
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
国立科学博物館 矢田部良吉デジタルアーカイブ