はじめに-牧野富太郎とはどんな人物だったのか
牧野富太郎とは、土佐国(現在の高知県)に生まれた植物学者です。高知の豊かな自然に囲まれながら育った富太郎は、幼少の頃から植物に関心を持っていました。その後、西洋で研究されていた「科学としての植物学」に触れた富太郎は、ますます植物学に意欲を高めていったのです。
ほとんど独学で植物の知識を身につけた、富太郎。東京大学の植物学教室への出入りを許可されてからは、本格的な植物学の研究に没頭します。生涯を植物学研究に捧げたとも言える牧野富太郎とは、どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
NHK連続テレビ小説第108作『らんまん』では、牧野富太郎をモデルとした槙野万太郎(演:神木隆之介)が、夢を追い続け天才植物学者となる人生が描かれます。
目次
はじめにー牧野富太郎とはどんな人物だったのか
牧野富太郎が生きた時代
牧野富太郎の足跡と主な出来事
まとめ
牧野富太郎が生きた時代
牧野富太郎は、文久2年(1862)に生まれます。富太郎が生まれた頃の日本は、幕末の激動の時代でした。彼が生まれる一か月前には坂本龍馬が土佐藩を脱藩し、寺田屋事件や生麦事件が発生するなど、日本は新しい時代への第一歩を踏み出そうとしていた時期。
近代の幕開けとともに富太郎は産声を上げ、日本植物学の発展に大きく貢献することになりました。
牧野富太郎の足跡と主な出来事
牧野富太郎は文久2年(1862)に生まれ、昭和32年(1957)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
土佐の商家に生まれる
文久2年(1862)、富太郎は高知県高岡郡佐川町にある裕福な酒造旧家「岸屋」に生まれました。しかし、7歳までに父母や祖父を亡くしています。まだ幼く病弱だった富太郎ですが、気丈で開明的な祖母の手で大切に育てられます。祖母は、富太郎のよき理解者であり、大スポンサーでもありました。
9歳の時、寺子屋で勉学に励んでいた富太郎は、この頃から植物に関心を寄せるようになったそうです。この時、祖母は富太郎が欲しいと言った『重訂本草綱目啓蒙』全20巻を、すぐさま大阪の書店から取り寄せたそうです。
そして明治5年(1872)、寺子屋廃止に伴い、富太郎は藩校である名教(めいこう)館に入学することに。ここで初めて西洋の近代的な植物学に触れた富太郎は、ますます植物学に対する意欲を高めていくこととなるのです。
独学で植物学を学ぶ
明治12年(1879)、外の世界を知ろうとした17歳の富太郎は、高知市の師範学校教諭である永沼小一郎(ながぬまこいちろう)と出会い、彼に師事します。永沼小一郎から、科学的で新しい植物学を教わった富太郎は、近代科学の精神を重視することに。
そして、第2回内国勧業博覧会の見物や書籍などを購入するため、明治14年(1881)に初めて上京するのです。期待を膨らませた富太郎は、東京大学の植物学教室を訪ね、標本や海外の文献に触れました。
その後、郷里に帰った富太郎は、近代科学のさらなる発展のために理学会を創設し、科学思想の普及に努めました。富太郎は、この頃から自由民権運動にも参加するようになります。
上京し、植物学研究に没頭する
明治17年(1884)、本格的な植物学研究を志した富太郎は、再び上京。この時、東京大学教授の矢田部良吉に認められ、東京大学理学部の植物学教室への出入りを許可されます。
大学では、書籍や標本を使って熱心に植物学の研究に励んだ富太郎。海外に植物を送って同定してもらっていたほかの研究者と同じように、富太郎も東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに、植物の標本と図を送っています。
その際、富太郎の描いた精密な図に感動したマキシモヴィッチは、図を絶賛する内容の手紙を富太郎宛てに送ったそうです。その後、『日本植物志図篇』の刊行や新種の植物の発見など、植物学者として活躍するようになった富太郎。明治22年(1889)には、大久保三郎とともに新種ヤマトグサを発表しました。これは、日本初の国際的な学名の発表でした。しかし、研究のための出費がかさみ、裕福だった実家の経営が傾いてしまいます。
また、明治23年(1890)には、一時、教室出入りの差し止めを受けるなど圧迫を受けました。その後、帰郷して写生や植物採集に励んでいた富太郎は、東京大学の教授に勧められ、同大学の理学部助手として明治26年(1893)から勤めることに。再び上京した富太郎は、経済的に苦しい状況ながらも、家族や周囲の仲間たちに支えられながら明治33年(1900)に『大日本植物志』を刊行します。
困難に負けず、懸命に植物学研究を進める富太郎の姿は多くの人々に影響を与え、いつしか日本の植物学研究の第一人者として捉えられるようになっていったのです。
【妻との死別、植物図鑑の完成。次ページに続きます】