「大岡弥四郎事件」とその余波
弥四郎のキャリアは順調に見えましたが、やがて雲行きが怪しくなっていきます。それが大岡弥四郎事件です。
家康の家臣が領地を加増された時、それを取りなしたのは自分であると弥四郎は主張。しかし、これが事実ではないと発覚し、弥四郎は処罰されて、家財を没収されてしまいます。これをきっかけに家康に恨みを抱いた弥四郎は、仲間とともに岡崎城を乗っ取ることを画策。
その時、弥四郎は武田勝頼と内通することを考えます。弥四郎は勝頼に対して、勝頼の複数人の部下を岡崎まで差し向けてくれれば、岡崎城主の信康を討ち取れるという趣旨の手紙を送りました。
謀反は成功するかに見えましたが、仲間の一人が家康に謀反を密告したことで、計画が発覚。これによって、弥四郎は拘束されてしまいます。妻子は磔にされ、自身は土中に埋められ、通行人に竹鋸(たけのこぎり)で引かれる鋸引きの刑に処されました。天正3年(1575)のことでした。
弥四郎の処刑によって、武田氏との内通者に関する事案は集結したかのように見えましたが、これだけでは終わりませんでした。『三河物語』によると、弥四郎の讒言により、家康と信康の間に亀裂が生じたという記載が出てきます。
これまでの通説はこうでした。信康の妻である徳姫(とくひめ)が、天正7年(1579)に父・信長に対して「十二か条の訴状」を送付。信康とその母・築山殿(つきやまどの)が武田氏と内通していると疑いをかけ告発したというものです。
告発の背景には、信康と徳姫の間に男子がいなかったので、築山殿は徳川家の家臣・浅原(あさはら)氏を信康の側室に迎え入れ、これに徳姫が反発したことが理由として挙げられます。
これがきっかけとなり、家康と織田信長との間で協議がなされ、信康と築山殿に対する処罰が決定しました。
信康は岡崎城を追われ、切腹させられます。同じ時期に、築山殿も岡崎城から浜松城に呼び出しを受けて向かう道中、佐鳴湖(さなるこ)の湖岸で暗殺されました。
大岡弥四郎は個人的な恨みから武田と内通した?
大岡弥四郎事件の背景には、徳川方内部で武田氏に対する姿勢の違いが考えられます。徳川領の東半分、つまり遠江の浜松城を中心とする地域は、信長との連携によって武田氏と徹底的に戦おうとする主戦派でした。そして、徳川領の西半分、つまり三河の岡崎城を中心とする地域は、武田氏との敵対関係を再考しようとする融和派だったのです。
弥四郎は勝頼と内通していたことから、融和派。また、融和派の中心には信康もいたと考えられます。
これらの背景を考慮すると、弥四郎だけが純粋に個人的な思いつきから勝頼と内通したとは言えません。徳川家臣団の中で主戦派と融和派の対立があり、その中で弥四郎が勝頼に内通していた。それが露見したことで、融和派に対する見せしめとして、弥四郎は極刑に処されたと見ることも可能です。
また、一説によると、徳川方内部における家臣団の対立の中で、家康の息子が反旗を翻したことで死に追いやられたのは、やがて「神君」と呼ばれるようになった家康に泥を塗りかねない出来事。そこで、あえて弥四郎が個人的な理由から謀反を起こしたという形に収めたのではないかとも言われています。
まとめ
弥四郎は一般的には、自分の保身のために主君・家康を裏切った人物であるとされています。しかしながら、大岡弥四郎事件の背景には、徳川家臣団の中で武田氏に対する政策をめぐって対立がありました。これらを考慮すると、弥四郎に対する既存の見方には、再考が必要なのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)