家康と秀吉が囲碁? 伝承通りの大石が出土か?

最後に、越前攻めに参戦したと伝わる徳川家康の動向についてまとめておこう。家康が越前攻めに参加したという伝承は、『三河物語』や『東遷基業』など、江戸時代以降に家康の業績をまとめた史料に限られ、同時代の史料には見出せない。

美浜町内の徳川家康ゆかりの地マップ

実際、家康にとって元亀元年は、甲斐武田氏の侵攻に備えて居城をこれまでの三河岡崎城から遠江浜松城へ移転を進めている時期で、領国を長く空けておくわけにはいかない状況にあった。ただ、家康と信長の関係を勘案すれば、足利将軍の上洛要請に応じないという選択肢はなかったと思われるし、2か月後の北近江の姉川の合戦には参加している実態もある。本人が行ったか、名代を派遣したかになるわけであるが、その答えは残念ながらわからない。しかし、撤退戦における家康の動向は美浜町内や嶺南地域に数々伝わり、「来なかった」とも言い切れないのである。

なぜ、美浜町や嶺南の各所には数々の「家康伝承」があるのか? それは、江戸時代にこの地域を支配した酒井氏の存在が大きいと思われる。老中や大老を輩出する徳川譜代の名門が支配する小浜藩であったからにほかならない。

寛永11年(1634)、小浜藩酒井氏初代となった忠勝は、幕府の老中や大老を歴任した譜代大名であるが、若狭国は徳川家にゆかりの深い東海や関東からは離れており、領民も徳川家との繋がりは皆無であった。隣国越前は、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、家康の次男である結城秀康が封じられて以来の越前松平家支配であるが、若狭国においては、徳川譜代の新たな領主として領民との繋がりを「神君家康公降臨の地」に求め、伝承を利用して広く喧伝した可能性はあるだろう。

以下、美浜町に伝わる家康伝承をご紹介しよう。最初は、家康の陣所にまつわるものである。

軍記『国吉籠城記』諸本には、織田信長の国吉城入城に従い、徳川家康がやって来たことが記されている。本により陣を置いた場所の表現に若干の差異があるが、例えば「徳川家康卿は金山村の南、別所に陣を取らせ給ふ」(『若州三潟郡佐柿國吉城合戦記』元禄5・1692年写)のように、現在の美浜町金山の南にある「別所」という地域を指す意味で捉える本が多い。

一方、『若州国吉騒動記』(享和2・1802年写)では、「徳川家康卿ハ誨二隨別二陳所ヲ為取賜」とあるように、「別所」を「別の場所」と解釈したものもある。数多くの『国吉籠城記』が成立する過程で、筆者の解釈、捉え方で全く別の意味になったことが窺える。一次史料ではない事や、他の伝承等も踏まえれば、別所(別所ヵ原)説も可能性の一つに留まらざるを得ない。

家康の陣所の伝承はもうひとつ。土井山砦は、国吉城の出城と伝わり、耳平野西端の独立丘陵北部(標高69.4メートル)に位置し、北側の麓を東西に丹後街道が通過し、丘陵の西側には『国吉籠城記』諸本に出てくる徳川家康が陣を取ったという別所の原野である。

城郭の中心部は、町の給水タンク建設時に破壊されているが、堀切で区画された連郭式曲輪群の一部が残る。若狭国まで退却した木下藤吉郎は国吉城に、徳川家康は土井山砦に一時立て籠もったという伝承がある。

3つ目は、家康と秀吉のエピソードである。国吉城址が残る地元佐柿出身者からの聞き取りで、古老から聞いた話として、昔、国吉城の本丸に平らな大石があり、織田信長が国吉城を訪れた折、随行してきた徳川家康と木下藤吉郎が囲碁に興じた石という。

国吉城本丸北西虎口跡の鏡石

つい最近まで、本丸跡に登ってみてもそのような大石は見当たらなかったが、平成25~26年度の発掘調査で、北西虎口跡から平らかな大石が出土した。この石は、粟屋氏の後に城主となった秀吉重臣の木村常陸介定光が城を改修した際に置いた「鏡石」が倒れたものとみられるが、後世、このような大石を城跡で見た人々によって、そのような話が広まったのかもしれない。

次も家康と秀吉のエピソードで、朝倉の追撃にまつわる話である。美浜町に合併する前、山東村では『東遷基業』の記述と現場で出土した小刀などを紹介し、家康が撤退してきた折、朝倉軍の追撃から逃れて丹生に隠れた秀吉勢が、再び国吉城に向かおうとした時、佐田黒浜で朝倉軍の追撃で絶滅寸前のところ、徳川勢が現れて救出し、秀吉に厚く感謝されたと、地域の歴史として学校で教えていた。

久々子の徳川家康陣跡碑(『目で見る美浜の文化財』1980 より)

最後は、黒浜の戦い後の話。『東遷基業』によれば、佐田黒浜で木下隊を救った後、家康は後退して美浜町松原と久々子の境辺りに陣を張ったとされ、昭和55年(1980)に美浜町教育委員会が刊行した『目で見る美浜の文化財』には、旧西郷中学校付近にあった「徳川家康陣跡(久々子)」の碑の写真が巻頭に掲載されている(現在、碑は消失)。この後、家康伝承は美浜町から遠く小浜市に繋がり、信長の退却ルートである朽木越えではなく、小浜から最短距離で京に抜ける針畑越えで退却したと伝わっている。

今回ご紹介したのは、これまで知られてきた通説とは異なる「新説」ともいえる退き口である。『太閤記』では秀吉の活躍として、『東遷基業』では東照神君(家康)の功績として評価される一方、朝倉方でも勝ち戦として記録されるなど、切り口や立場、見方よって「金ヶ崎の退き口」の評価や解釈は大きく変わる。今後、様々な史資料から検討を加えていけば、「金ヶ崎の退き口の真実」が見えてくるかもしれない。

1570年4月 金ヶ崎の退き口と徳川家康伝承

文/大野康弘(若狭国吉城歴史資料館館長)

※写真・地図・表は若狭国吉城資料館提供

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