信長と戦い、滅亡する
元亀元年(1570)、信長は朝倉氏征伐を開始します。この時、同盟を結んでいたはずの近江の浅井長政(あざい・ながまさ)が信長に敵対。前は朝倉軍、後ろは浅井軍に挟撃されたので、信長は撤退を余儀なくされました。
その後、信長は徳川家康の協力を得て、姉川(滋賀県長浜市)で決戦を行ないましたが、勝敗はつきません。さらに、三好三人衆が攻勢を強め、また本願寺が信長と対決する姿勢を明確にしたことなどから、義景は浅井氏や一向一揆とも連合して近江の坂本に出兵。義景は坂本から比叡山を保持し、京都進攻を企図します。
義景は出陣を繰り返し、何度も信長と交戦するも、戦局は膠着状態に。この中で、信長によって比叡山の延暦寺は焼き討ちにされます。義景に味方した報復でした。
状況が大きく動くのは、元亀4年(1573)。義景は浅井救援のため出陣するも、信長に敗走。信長に追撃されて、近江から敦賀につながる刀根坂(とねざか)で大敗します。
越前に入った信長は一乗谷に火を放ち、三日三晩燃え続けたとされています。これにより、一乗谷は灰燼に帰したのでした。
義景は一乗谷にとどまることができず、いとこの朝倉景鏡(かげあきら)の助言で大野郡(福井県大野市)に避難します。しかし、その景鏡も既に信長と内通しており、義景が滞在していた六坊賢松寺(ろくぼうけんしょうじ)を包囲。
死期を悟った義景は、「七転八倒 四十年中 無他無目 四大本空」「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」の辞世の句を残して、自害します。享年41歳でした。
なお、義景が亡くなった後も、朝倉景嘉(かげよし)など朝倉一族の者によって朝倉氏を再興しようとする動きはありましたが、最終的に失敗に終わりました。
義景の家臣だった明智光秀
信長の家臣で、本能寺の変を起こした明智光秀(あけち・みつひで)は一時期、越前で義景に仕えていた時期もありました。
義景に仕えるようになった光秀は、一乗谷(いちじょうだに)の近辺に数年間住んでいたと言われています。越前に加賀の一向一揆が押し寄せた時は、光秀は朝倉軍に与し、勝利に貢献したとも。
また、永禄10年(1567)に義昭が義景に上洛の協力を求めて一乗谷を訪れたのを契機に、光秀は義昭にも仕えるようになります。実際、信長との上洛に向けた交渉に関与していました。
ちなみに、光秀の屋敷跡に伝わる場所に「あけっつぁま」と呼ばれる明智神社があり、そこにある光秀の木像は400年以上、地元の人たちによって守られてきたそうです。
天正3年(1575)、柴田勝家(しばた・かついえ)が一向一揆を鎮圧するために、明智神社のある地区に兵を送り込もうとした際、光秀は住民を守るため勝家に申し入れをしたとか。その恩を忘れなかった住民の思いが今も伝わっているようです。
文化人としての義景と領国の繁栄
義景は歌、画、禅などに通じていて、文化的な資質が優れていたようです。義昭とともに曲水の宴をはり、糸桜を観賞するなど、風雅な側面も見せています。また、領国もよく治め、商業や経済も発展したようです。一乗谷の各地からは、莫大な青磁・白磁・染付の磁器片やベネチアンガラスが出土しており、当時の繁栄をしのばせます。
まとめ
義景は文化的な資質に優れ、領国もよく治めるなど、個人的な能力は高かったにもかかわらず、上洛のタイミングを逃したことを契機に信長と敵対することになり、最後は滅ぼされてしまいました。歴史に「if」は禁物ですが、生きている時代が違えば、文化や領国の発展などで優れた功績を残せたのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)