この戦いの内容と結果
家康が領国化政策を行った三河は、元々一向宗が盛んな地域でした。そのため、武士領主による支配を快く思わない者が多かったと考えられます。また、家康の家臣の中にも、一向宗に帰依する者が少なからずいたため、本多正信や渡辺守綱などの有力な家臣たちが一揆側に与するという問題が生じることになったのです。
これは家康にとっては大きな痛手であり、「三河一向一揆」は、「三方ヶ原の戦い」や「伊賀越え」に並ぶ、家康の三大危機の一つとされています。家康の信仰する浄土宗に改宗した石川数正や本多忠勝は、家康側に味方して戦い、家康もまた奮闘しますが、勢力の強い一揆側は彼らを大いに苦しめました。
さらに、永禄7年(1564)1月の「上和田(かみわだ)の戦い」では、家康が甲冑に二発の銃弾を受け、戦況は深刻なものとなってしまいます。しかし、戦いが長期化するにつれて疲弊した双方は、和議によって和睦することを決意しました。
家康は三か条の起請文を与え、永禄7年(1564)3月に一揆側と和睦することとなります。
その後
一揆が収束したことで、三河に平穏が戻ることとなりました。一応は、和睦という形で戦いを終わらせた家康ですが、一揆側が武装を解除したところを狙って、領内の一向宗を禁止するとともに、一向宗寺院を破却し、一向宗門徒を中心とする反家康勢力を追放してしまったのです。
和睦するように思わせて、油断した敵を一気に追い詰めるという家康の知略によって、最終的に「三河一向一揆」は家康側の勝利に終わることとなりました。
先述の通り、この戦いでは家康の家臣たちも一揆側に与することとなりましたが、彼らの多くは家康に嘆願して帰参しています。家康は彼らの帰参を許すという寛大な処分を下していますが、これは家臣団が離散して弱体化するのを防ぐためであると考えられるでしょう。一方で、本多正信のように国外に逃れたものもいます。
また、現代とは違って当時は宗教が重要視されていたため、主君と信仰の間で揺れる家臣たちの心情も理解できたのかもしれません。家康にとって、「三河一向一揆」は宗教の恐ろしさを知らされる戦いになったと言えます。
大規模な一揆を鎮圧したことで家臣団の結束力はさらに高まり、家康は再び三河の攻略に乗り出すこととなったのです。
まとめ
「三河一向一揆」が勃発したことで、三河は本願寺派禁制の地となり、家康の支配がさらに強くなるという、一揆側にとっては皮肉な結果に終わることとなりました。家康を大いに悩ませ、危機的状況へと追い込んだこの戦いによって、家康は家臣団の結束力を高めること、そして三河の統一を一層重視するようになったと言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
⽂/とよだまほ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)