なぜ三浦一族は族滅に至ったのか
A:繰り返しになりますが、泰時治世のこの時期は、竹御所も健在でつかの間の平穏な日々が送られたようですね。実朝十三回忌に三重塔を造営したりしています。
I:この穏やかな時に『御成敗式目』の完成(1232年)をみたわけですね。
A:皆、義時の時代とは違って、永遠に穏やかな日日が続くと夢想したのではないでしょうか。でもなかなかそうはいかない。政子の後継者として御家人らから慕われていた竹御所が天福二年(1234)に難産の末に亡くなってしまいます。
I:義村が亡くなったのはそれから5年後。12月に義村が急死し、翌月には時房も急死します。
A:京都の公家の間では後鳥羽上皇の怨霊の仕業ではないかと噂されたようですが、さらに3年後には泰時が亡くなります。泰時の子息時氏、時実はすでに亡くなっていたため、孫の経時が執権職を継承するわけですが、三寅という幼子から将軍職にあった頼経も成人し、側近を抱えていて、きな臭い雰囲気が漂うわけです。
I:自我が芽生えた頼経が、子供の頼嗣に将軍を譲るというゴタゴタが続き、またも鎌倉は権力闘争に突入します。
A:北条家も経時から時頼に代が代わります。このころも三浦一族は北条家についで御家人NO.2の位置にいますが、頼朝(演・大泉洋)側近だった安達盛長(演・野添義弘)の安達家が勢力を増してきている。そうした中で、諸説ありますが、宝治元年(1247)に宝治合戦が勃発して、三浦一族は滅亡します。頼朝の挙兵から67年後の出来事でした。
I:頼朝挙兵から67年。実朝の死から28年。義時の死から23年。三浦義村の死から8年が経過していたんですね。
A:幕府軍と合戦になった三浦一族は頼朝の墓所ともいうべき法華堂に立て籠もり、頼朝の御影(肖像画)の前で自刃して果て、頼朝法華堂も焼け落ちたわけです。この騒動を以て、鎌倉幕府のひとつの時代が終焉したといってもいいかもしれません。
I:三浦一族を滅ぼした時頼以降、北条家は得宗専制政治への舵をきります。頼朝法華堂で最期を遂げた三浦一族は、文字通り、「頼朝の幕府」とともに滅亡したということなのでしょうね。
A:山本耕史さんにここまで演じてほしいと思ったのですが……。
I:スピンオフを期待しているのですよね。囲み取材で清水拓哉制作統括に聞いてみましたが、今のところ予定はないそうです。かなわぬ夢ですよ。
A:かなわぬ夢? そうかもしれません。でも、かなわぬ夢がひとつくらい机の上に飾られていてもいいじゃないですか(笑)。
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。歴史作家・安部龍太郎氏の『半島をゆく』、鎌倉歴史文化館学芸員の山本みなみ氏の『史伝 北条義時』などを担当。初めて通しで見た大河ドラマが『草燃える』(1979年)。先日、源頼朝のもう一人の弟で高知で討たれた源希義の墓所にお参りした。
●ライターI:ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2022年1月号 鎌倉特集も執筆。好きな鎌倉武士は和田義盛。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり