「徳川四天王」の一人として活躍する

元亀元年(1570)の姉川の戦いでは徳川軍の先鋒を務め、天正3年(1575)の長篠の戦いでは奇襲攻撃を献策し、織田信長に賞賛されたと言います。このように軍事面の功績が多い忠次は、井伊直政(なおまさ)・榊原康政(やすまさ)・本多忠勝(ただかつ)の3名と合わせて「徳川四天王」の名声を博しました。

「徳川四天王」とは、家康の覇業に功績のあった重臣のことです。ただし、忠次は他の3人に比べ、20~30歳ほど年齢が高かったこともあり、4人が同時に活躍した時期は短いといえます。

『酒井忠次時鼓打之図』
「三方ヶ原の戦い」にて、酒井忠次(一番左)が浜松城の櫓上で太鼓を打つ様を描く。

一方で忠次は「えびすくい」の舞いが得意だという一面もあり、天正14年(1586)に家康が北条氏政と対面した酒宴の席では宴会芸を披露したという逸話が残されています。

家督を譲り、隠居

天正14年(1586)、忠次は豊臣秀吉より近江の内千石の地を与えられ、宮城諸門の警固や天皇行幸の供奉などを司る「従四位下・左衛門督(じゅしいのげ・さえもんのかみ)」に叙位任官されます。その2年後、62歳のときには官職を辞して、家督を嫡子・家次(いえつぐ)に譲り隠居したのでした。

酒井忠次像(先求院所蔵)

京都にて没する

慶長元年(1596)10月28日、70歳で忠次は没します。家康が「関ヶ原の戦い」で天下を手中におさめる4年前のことでした。忠次は知恩院・先求院(せんきゅういん、京都市東山区)に葬られます。彼が隠居した京都・桜井の邸宅は、当時の天下人・豊臣秀吉から与えられたものでした。家康だけでなく、天下人であった秀吉にも一目置かれた人物だったことがうかがい知れます。

その後の酒井氏はというと、家康の関東移封に際し、吉田城から下総国・碓井(臼井)城へと移ります。嫡子・家次は、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)・高崎に転封して5万石、元和2年(1616)には越後国・高田城に移り、すべてで10万石余を領しました。

まとめ

家康に仕え、その高い軍事力・政治力が評価され、“徳川四天王”として名を連ねた「酒井忠次」。生涯を紐解くことで、義理の叔父であり15歳年長の忠次を、家康が敬重したことがうかがい知れます。歴史的偉人を最も長く支えた一人である忠次は、徳川の発展の功労者の一人ともいえるでしょう。

文/トヨダリコ(京都メディアライン)
アニメーション/貝阿彌俊彦(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)

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