一族に背き、義時の味方をする
建保元年(1213)5月に、北条氏の挑発に乗る形で和田義盛が挙兵する「和田合戦」が勃発。義盛の従兄弟である義村は、当初、弟・胤義(たねよし)らとともに和田氏に同心の約束をして起請文まで書いていました。しかし、義村は和田義盛が挙兵したことを北条義時に知らせます。
戦いは、3代将軍・実朝を擁したことで多くの御家人を味方につけた北条氏が勝利。和田氏が滅亡したことは、義村が自ら同族である和田一族を葬ったことを意味していました。義村は、その裏切り行為から、義盛敗死後には〈三浦の犬は友を食う〉と非難されたといいます。
北条氏に忠誠を尽くす
また、承久元年(1219)正月の実朝暗殺事件では、実朝を殺害した公暁は、みずから将軍たらんとして、乳母の夫であり御家人中の有力者・義村を頼ります。しかし、しかし、義村は北条氏に通じたためにその願いは成就せず、その夜のうちに義村の差し向けた討っ手によって殺されたのでした。承久3年(1221)5月の「承久の乱」では、弟・胤義から反北条氏勢力である京都方に誘われるも、その反逆に同心せずに幕府を助けます。北条泰時の軍に従って上洛し、尾張川・宇治川で戦功をあげることで反北条氏勢力を制圧。この行動は、相対的に三浦氏嫡流家の政治的地位を向上させたのでした。
元仁元年(1224)6月、義時が急死すると義時の後室・伊賀氏らが、将軍および泰時を除こうと謀ります(伊賀氏の変)。頼朝の甥・一条実雅(さねまさ)を将軍に、義時の子・北条政村(まさむら)を執権に立てる、という伊賀氏の陰謀に誘われた義村でしたが、政子の説得で反転。北条執権家に忠誠を示したことで、信任されました。
評定衆となり、一族の最盛期を築く
そして翌嘉禄元年(1225)12月、執権である泰時は義村を「評定衆(ひょうじょうしゅう)」に任じました。評定衆とは、執権・連署とともに裁判・政務などを合議裁決する役職です。これにより、義澄が築いた幕政における三浦一族の地位はより強固なものとなり、没するまでの14年間にわたり、幕府の枢機に参画してその権勢を振るったのでした。
また、義村は鎌倉幕府の基本法典『御成敗式目』の制定にも参与しました。『御成敗式目』は貞永元年(1232)、執権・泰時のもとに、評定衆を起草者として制定された51ヵ条の鎌倉幕府法です。源頼朝以来の慣習法や判例などを規範とし、行政・訴訟などに関して定めた武家最初の成文法とされ、後世の武家法の基本となりました。
こうした活躍から“三浦一族の最盛期を築いた人物”とされる義村ですが、延応元年(1239)12月5日にこの世を去りました。神奈川県三浦市南下浦町金田の南向院跡に、義村の墓と伝えられるものがあります。
まとめ
優れた政治的判断力をもって数々の危機を回避し、三浦氏の幕府での地位を実現した「三浦義村」。従兄弟の関係にあたる義時との関係性は“盟友”と表現されます。このことから彼は、頼朝亡き後の鎌倉幕府を作り上げる義時を支えた、重要な人物といえるのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)