順調な夫婦生活
義時と結ばれた姫の前は、3人の子(男子2人・女子1人)を儲けた。
長男の朝時(1194年生)は、のちに鎌倉の名越(なごえ)に邸宅を有したことから、名越朝時とも呼ばれる。承久の乱では、北陸道の大将として進軍した。
次男の重時(1198年生)は、のちに六波羅探題北方となり、その在職は17年にも及んだ。鎌倉に極楽寺を開いたことでも知られる。
娘は、竹殿(生没年未詳)と号し、のちに内大臣土御門定通の妻となった。
このように、順調に3人の子宝にも恵まれているところをみると、琴瑟(きんしつ)相和す夫婦であったといえよう。
突然の別れ
しかし、幸せな夫婦生活にも、突然終わりが来る。1203年7月、2代将軍の頼家が病気にかかり、危篤に陥ったのだ。ここで、幕府は次の将軍の選出に迫られ、頼家の息子一幡を推す比企氏と弟の千幡(のちの実朝)を推す北条氏で意見が分かれた。
さて、困ったのは義時である。自分の一族と妻方の一族が対立することになった。相当な苦悩があったと思われるが、親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない。義時は、父時政の命令に従い、武士たちを率いて比企一族を滅ぼした。
当然、これまでのように夫婦生活を送ることはできない。姫の前は義時に離別され、3人の子を残して、鎌倉を去った。
程なく上洛し、貴族の源具親(みなもとのともちか)と再婚。翌1204年には輔通、次いで輔時を出産するが、1207年3月にその短い生涯を終えた。鎌倉を去ってから、わずか3年後のことであった。
一方の義時も、離別後、後妻に伊賀の方を迎え、それぞれの道を歩んでいる。歴史にもしもは禁物であるが、北条氏が謀反人として比企氏を滅ぼすことがなければ、こんなにも早く離別することはなかったのではないか。
義時は、妻方の一族を手にかけるという体験をした。北条氏のためとはいえ、この悲惨な出来事を生涯忘れることはなかったであろう。
なお、筆者のつとめる鎌倉歴史文化交流館では、義時と姫の前のエピソードをYoutubeで配信しているので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。
(【北条義時】ヨシトキ君の恋バナ聞いちゃったよ!【鎌倉国宝館×鎌倉歴史文化交流館】https://www.youtube.com/watch?v=By9xprpGJ9k)
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山本みなみ/1989年、岡山県生まれ。中世の政治史・女性史、とくに鎌倉幕府や北条氏を専門とし、北条義時にもっとも肉薄していると学界で話題を集める新進気鋭の研究者。京都大学大学院にて博士(人間・環境学)の学位を取得。現在は鎌倉歴史文化交流館学芸員、青山学院大学非常勤講師。『史伝 北条義時』刊行。