はじめに-源仲章とはどんな人物だったのか
源仲章(みなもとのなかあきら)は平安後期から鎌倉時代の官吏です。幕府の政所(まんどころ)別当を務めるかたわら、後鳥羽上皇にも仕えました。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、北条義時と後鳥羽上皇の間で暗躍する、後鳥羽上皇の側近(演:生田斗真)として描かれます。
目次
はじめに-源仲章とはどんな人物だったのか
源仲章が生きた時代
源仲章の足跡と主な出来事
まとめ
源仲章が生きた時代
源仲章が生きたのは平安後期から鎌倉時代。鎌倉幕府の成立にともない、朝廷は幕府と関係を築きながら政治を行っていました。貴族の子として生まれた仲章は、官吏として朝廷に仕えると同時に、3代将軍・実朝の教育係の役割も担いました。優れた頭脳から、幕府・朝廷双方で役割を持っている人物といえるでしょう。
源仲章の足跡と主な出来事
源仲章は、生年は不詳で承久元年(1219)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
後鳥羽上皇に仕える
源仲章の父親は、後白河法皇の近臣とされます。仲章は兄弟の仲国(なかくに)・仲兼(なかかね)らと共に後鳥羽上皇に仕えました。
建仁3年(1203)に源実朝が3代将軍になると、京から関東に下り、将軍の侍読(じとう)となりました。「侍読」とは、天皇・東宮に侍して学問を教授する学者やその職を指します。平安時代の後世には天皇や貴族だけでなく、将軍や藩主などに侍して書を講ずる者にも用いられました。
幕府で政治・行政を司る政所が拡充されると、大江広元(ひろもと)の次席で別当となります。さらに、中央官庁の官吏養成に関する教育と事務を管掌した機関の長官・大学頭(かみ)、詩文と歴史とを教授する文章博士(もんじょうはかせ)も務めました。
北条義時と誤認され、殺害される
承久元年(1219)正月27日の夜、鶴岡八幡宮境内において3代将軍・実朝による右大臣拝賀の参拝が行われます。その際、仲章は御剣(ぎょけん)の役(=将軍の側近くで剣を捧げ持つ役)を務めていました。するとその直後、頼家の遺児・公暁(くぎょう)が襲撃し、実朝を殺害。仲章もともに斬られたのでした。
このときの源仲章の役目は、本来は北条義時が務めるはずでしたが、『吾妻鏡』によれば、義時は急に体調不良となり、源仲章に役目を譲って休んでいたことになっています。
ちなみに、この際公暁が将軍を暗殺した理由は親の仇討ちとされます。公暁の父・頼家は「比企氏の乱」により伊豆の修善寺に幽閉され、暗殺されました。頼家が非業の最期を遂げた後、跡を継いだのは実弟の源実朝です。そのため、公暁は怨恨により実朝を襲撃したと考えられています。
仲章の兄弟・仲国と仲兼
仲章の兄である源仲国は、仲章と同じく平安後期から鎌倉時代の官吏です。後白河法皇の側近である父は宇多源氏(うだげんじ)の家系とされます。妻は後白河天皇の側室・丹後局(たんごのつぼね)の縁者。仲国は、備前、若狭、伊勢の国守や裁判を司る・刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)などを歴任します。
後白河院の近臣で、手工業のための役所兼工房を指す「院細工所(いんさいくしょ)」の別当も務めました。しかし、院の託宣と称して御廟建立を唱えると、それを妖言とみなされたことで、建永元年(1206)に妻とともに追放されたのでした。
仲章の弟・源仲兼も、兄2人と同じく官吏の道に進みます。後白河法皇の皇女・宣陽門院(せんようもんいん)の蔵人(くろうど=日常生活に奉仕する役職)を務めました。また、近江などの国守でもあります。兄と同じく後白河院のそばで仕え、法住寺の院御所が源義仲に焼き討ちされた際は、弟とともに奮戦したとされます。建保元年(1213)には、源実朝にも仕えました。
まとめ
院近臣の家に生まれて後鳥羽上皇に仕えた源仲章。同時に彼は、鎌倉幕府にも通じて将軍の教育係としての役割も担いました。暗殺に巻き込まれる形でこの世を去った彼の生涯からは、深く絡み合う周辺人物らの思惑が感じ取れるのではないでしょうか。
文/トヨダリコ(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)