若公上洛。鎌倉最後の夜を頼朝と過ごす
【建久三年(1192)五月十九日】若公上洛。鎌倉最後の夜を頼朝と過ごす
大進局の生んだ男子は上洛し、隆暁法眼の弟子として仁和寺に入室することになった。上洛に随行するのは、長門景国、由井七郎ら5人の御家人と雑色、御厨舎人。由比の常陸平四郎宅から出発したのだという。
『吾妻鏡』は出発前夜、〈幕下(頼朝)潜に其の所に渡御し、御剣を給ひ奉ると云云〉と頼朝がひそかに若公のもとを訪ねたことを記録している。頼朝と若公、ふたりの間でどのような会話が交わされたのかはわからない。なぜ、鎌倉殿の男子が、ひそかに鎌倉を離れなければならなかったのか。それほどまでに政子の怒りが強烈だったのか。わざわざ守り刀を授けに出向いた頼朝の心情を想うと胸が張り裂けそうな思いを禁じ得ない。
【建久三年(1192)六月二十八日】若公上洛に随行した由井七郎が鎌倉に帰着
若公上洛に随行した由井七郎が鎌倉に帰着したことに触れられ、若公が、6月16日に隆暁法眼の仁和寺の坊に入室したことが『吾妻鏡』に記される。隆暁法眼は、頼朝の同腹の妹・坊門姫の夫である一条能保の養子という縁があり、若公入室の日には、一条能保も同行したという。若公の処遇は、鎌倉と京の「頼朝ネットワーク」の中で決められたことがわかる。
ちなみに隆暁法眼は、養和の飢饉で京に餓死者があふれた際に、死者の額に「阿」の字を書いて回ったという『方丈記』に描かれたエピソードで知られる高僧だ。
【建久三年(1192)八月九日】頼朝と政子の次男 実朝の誕生
この日、早朝から政子が産気づく。無事の出産を祈念して、鶴岡八幡宮寺のほか相模中の神社仏寺に神馬を奉納したうえで、お経をあげるように指示された。巳の刻(午前10時~正午)に、男子誕生。乳母には即日、阿波局(劇中の実衣/演・宮澤エマ)が任ぜられ、千幡と名づけられた。魔祓いの鳴弦役に平山季重、上野光範、同様に魔祓いの引目役に和田義盛。北条義時らも守り刀を献上している。
二夜の儀式は、大内義信、三浦義澄。三夜=加賀美遠光、安達盛長。四夜=千葉常胤。五夜=下河辺行平。六夜=大江広元。七夜=小山朝政と錚々たる御家人が男子誕生を祝した。この間、鶴岡八幡宮では、相撲や舞楽が催され、鎌倉は祝賀ムードに包まれた。
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北条政子への遠慮からか、鎌倉殿男子としての待遇を得ることができなかった若公は、仁和寺隆暁から「貞暁(じょうぎょう)」という法名を授けられた。
御仏に生涯を捧げることになった貞暁。この後、数奇な運命を辿ることになるのだが、それは『鎌倉殿の13人』の展開にあわせてリポートしたい。
※1:長門景遠の屋敷で誕生した。
※2:大進局の父は、後年陸奥に領地を得て、伊達氏を称する。子孫に独眼竜政宗など。
構成/『サライ』歴史班