文/柿川鮎子
江戸後期に活躍した曲亭馬琴(本名滝沢興邦・おきくに、1767~1848年)は、文章だけで生計を立てることができた日本で最初の作家です。享年82歳と当時としては長生きで、生涯200作以上の作品を書き上げました。その中で現在、最も有名で人気の高い作品が「南総里見八犬伝」です。
「南総里見八犬伝」は馬琴が28年もの歳月をかけて書き上げた傑作です。その全106巻にもわたる長編の一巻目が発刊されたのが1814年。そしてその6年前の1808年にも、大人気となった伝奇小説を発刊しています。その小説が「頼豪阿闍梨恠鼠伝」(らいごうあじゃりかいそでん、挿画:葛飾北斎)です。八犬伝の陰に隠れてしまった作品ですが、200年以上前の作品とは思えない魅力に溢れていました。
タイトルの恠鼠は怪鼠と同意で、ネズミを操る怪しい阿闍梨(高徳の僧侶)の怪奇譚です。里見八犬伝は犬ですが、こちらはネズミが大活躍して主人公を助けます。八犬伝によく似た空想小説ですが、八犬伝にも劣らず、読む人を魅了して、話題になりました。
元ネタはタイトルにも入っている「頼豪(らいごう)」の伝説で、太平記などにも書かれた実在の人物・頼豪が登場します。「頼豪阿闍梨恠鼠伝」はこの頼豪の伝説をベースにしていますが、さらに馬琴風に物語を奇想天外、波乱万丈に仕上げました。まずはベースとなった頼豪の物語を紹介しましょう。
ベースは太平記にも書かれた頼豪・鉄鼠
平安時代中期、三井寺に頼豪(1002~1084年)という高層がいました。白河天皇は皇子誕生の祈祷を頼豪に依頼し、「成功すれば何でも叶える」と約束します。そこで頼豪は自分のいた三井寺に戒壇(かいだん)建立を願い出ます。
戒壇とは僧侶を正式に得度させる施設のことで、三井寺にはそれが無かったのです。当時、天台宗は比叡山延暦寺を中心とする山門派と、三井寺を中心とする寺門派の二つに分裂して、激しく対立していました。三井寺の戒壇建立は寺門派の悲願でもありました。
頼豪は命を削って祈願を行い、無事成功して、1074年、白川天皇に皇子・敦文親王が生まれました。
そしていざ戒壇建立というところで、延暦寺が大反対して、白河天皇との約束は反故にされてしまうのです。怨んだ頼豪は、祈祷で生まれた敦文親王を呪い殺し、親王は4歳で亡くなってしまいます。
呪詛により頼豪は石の体と鉄の牙をもつ大きなネズミの化け物に変身してしまいます。このネズミは『平家物語』の読み本『延慶本』では頼豪鼠と名付けられました。江戸時代の狂歌絵本『狂歌百物語』では三井寺鼠。同じく江戸時代の妖怪画集『画図百鬼夜行』では鉄鼠とも呼ばれました。水木しげるの妖怪画にも登場した鉄鼠は、ネズミの大群を率いて比叡山を駆けのぼり、延暦寺の仏像や経典を、片っ端から食い破ったのです。
ネズミは害獣でもありましたが、人々にとっては身近な生き物で、江戸時代はペットとしても愛玩されていました。世界初のネズミの飼育書「養鼠(ようそ)玉のかけはし」や「珍翫鼠育草(ちんがんそだてぐさ)」などが発刊されています。
馬琴の頼豪は木曾義高にネズミの術を伝授
馬琴は頼豪の伝説をベースに、主人公を木曾義仲の遺児である美妙水冠者(しみづのかんじゃ)・義高にしました。義高は父の敵である源頼朝への復讐のため、修行者の格好で諸国遍歴をしていました。
途中、父の墳墓に詣でた後、雨宿りしていた庵で眠っていると、夢に頼豪阿闍梨の神霊が出現します。
かつて、父・木曾義仲は征夷大将軍となるために、頼豪の祠に願書を寄進しました。それを嬉しく感じた頼豪阿闍梨は、息子の義高に自分がもっていたネズミを使った妖術を授けてくれたのです。
そこへ、彼の命を狙う猫間光実(ねこまみつさね)が現れます。光実が義高を斬ろうとすると突然、鉄鼠が現れて義高を庇います。光実が義高の義母を拷問しようとすると、何万ものネズミが現れて、義母を助けてくれました。
挿絵は当時も大人気だった浮世絵師・葛飾北斎でした。見事な絵と義高・光実のハラハラ・ドキドキの展開は江戸の人々の心を掴みました。
小説では大活躍の義高ですが、実際は、わずか12歳で源頼朝に殺され、許嫁だった頼朝の長女大姫はその死を悲しみ、10年も床に就いた挙句に、誰にも嫁がず20歳そこそこで病死してしまいます。義高に特別な力を授けて生き延びて欲しいと願った、人々の気持ちを汲みこんだ物語でもあったようです。
出版された後は大いに話題となって、歌舞伎や浄瑠璃でも上演されました(軍法富士見西行、中村粂太郎座)。さらに先輩作家・山東京伝が「稲妻形怪鼠標子(いなずまがたねずみびょうし)」という作品を書き、こちらも人気を集めました。
「頼豪阿闍梨恠鼠伝」(らいごうあじゃりかいそでん)を書き上げた馬琴は、こうした怪異ものの手ごたえを感じたのでしょう。発刊から6年後、代表作「南総里見八犬伝」第一巻を書き上げます。犬もネズミも物語の中では生き生きと描かれ、物語の中で永遠の命を与えられました。読んでいると江戸時代が遠い昔とは感じさせない、人や動物たちの匂いや息遣いを感じられる、迫力に満ちた見事な作品です。
文/柿川鮎子 明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。