文/柿川鮎子
徳川家康は天正9(1581)年3月22日、現在の静岡県掛川市にあたる遠江国、高天神城(たかてんじんじょう)に攻め入り、陥落させました。城主岡部長教は武田勝頼へ応援を要請しますが、何の返事も得られません。家康に降服を申し出たものの、受け入れられず、兵糧が尽き、城内から全員が討ち出る壮絶な戦いの末、降伏しました。
この時の死者は約730名。家康は城郭を焼き払います。この敗戦は武田側に大きなダメージを与え、翌年、武田勝頼は自刃し武田氏は滅亡してしまいます。
この戦いを通じて、家康は「武田が味方を見殺しにした事実」を世間に広め、武田側の結束を崩す計画でした。横田尹松(よこた ただとし/ただまつ)などが脱出して、各地で落城を知らせに走るのを黙認したようです。
家康の恩情で命びろいした武将がいた中、孕石元泰(はらみいしもとやす)は、陥落の翌日の23日、家康から切腹を命じられます。
その理由は家康が大好きな鷹にありました。
迷い込んだ鷹が迷惑
家康の鷹愛は深く、竹千代と呼ばれた幼年時代から鷹狩りを楽しみました。今川家に人質として暮らしていた時、隣に住んでいたのが孕石でした。家康の鷹がときどき、孕石の屋敷へ迷い込んでしまったのです。
鷹は孕石の家をフンで汚したり、捕った獲物である小動物の死骸を落として行きます。怒った孕石は今川義元に厳重なるクレームをつけましたが、一向に改善せず、竹千代本人を厳しく叱りました。
家康はその恨みを約30年後、高天神城の戦いで晴らしたのです。
孕石は自分だけがなぜ切腹を命じられたのか、理解していました。覚悟した孕石は堂々と切腹に臨みます。
当時の武士の切腹には、いろいろな作法がありました。まず沐浴をして身を清め、髪は独特の形に結い上げます。そして、切腹する際に向く方向も、決まっていました。
切腹は極楽があると信じられていた西方向を向いて行われますが、孕石は南方向を向いていました。「切腹のやり方も知らないのか」と問われた孕石は笑って、「仏は『十方仏土中、無二亦無三、除仏方便説』と説いている。西の方だけに極楽があると思うのか」と答えたそうです。
切腹に際しても一筋縄ではいかない人物の様で、こうした堅物の家の庭にお隣の鷹が迷い込んだり、フンをしたら、かなり厳しく叱られたことでしょう。人質として暮らしていた竹千代少年に、単に注意しただけとは思えません。嫌みを込めて叱ったようです。
それを30年以上も心に刻み、きっちり恨みを晴らしたこの一件は、家康という人物の気質をよく表しています。こういう性格だったからこそ、多くの武将が成しえなかった天下統一という偉業を、果たすことができたのでしょう。
今川義元の家と孕石元泰の家が遠く離れていたら。あるいは、家康が鷹を好きでなかったら、孕石は切腹を命じられることはなかったかもしれません。
家康の鷹への偏愛ぶり
何より家康の鷹愛ぶりは尋常ではなかったのです。天下統一を果たすと、鷹を独占し、売買を禁止しました。
『徳川実紀』によると、家康は鷹狩りを健康維持のために必要な運動や勉強と考えていたようで、「鷹狩は遊娯の為のみにあらず(中略)山野を奔駆(ほんく)し、身体を労働して、兼(かね)て軍務を調達し給は(たまわ)んとの盛慮(せいりょ)にて」と書かれています。正式に記録に残されているだけでも、生涯で千回以上もの鷹狩りを楽しみました。
多感な少年時代、好きなものに夢中になっている時、邪魔をされた記憶は長く残るもの。孕石元泰も竹千代少年にもう少し言い方を変えて優しく注意していたら、切腹せずにいられたのかもしれないと思うと、残念です。
人質の少年二人が通わせた心
孕石元泰と反対側の隣には、北条氏康(うじやす)の4男である氏規(うじのり)が人質として住んでいました。氏規は1545年生まれ、家康が1543年生まれなので、年齢的にも近く、同じ境遇の仲間として、親しく交わり合ったかもしれません。
孕石家に鷹が舞い込んだということは、氏規の家にも迷い込んできたはず。鷹を相手に、二人の少年は何を語り合ったのか、想像してみたくなります。
秀吉の北条征伐の際、北条一族は切腹を命じられましたが、家康の尽力で氏規は命を長らえました。
さらに氏規の息子の氏盛(うじもり)は秀吉から4千石の所領を与えられ、さらに氏規の死後は家康から領地の相続を認められ、合計で1万1千石の大名となり、生き延びることができました。
孕石の切腹と氏規の延命、隣人との仲は大切にしておいた方が良さそうです。
文/柿川鮎子 明治大学政経学部卒、新聞社を経てフリー。東京都動物愛護推進委員、東京都動物園ボランティア、愛玩動物飼養管理士1級。著書に『動物病院119番』(文春新書)、『犬の名医さん100人』(小学館ムック)、『極楽お不妊物語』(河出書房新社)ほか。