比留間榮子さん(薬剤師)
─世界最高齢の現役薬剤師として「ギネス世界記録」に認定─
「話を聴くことも患者にとって『くすり』。誰もが安心して立ち寄れる薬局にしたい」
──97歳の今も、現役の薬剤師です。
「ずっと前だけ見て、ひたすら薬局に来てくださる方の声に耳を傾けていたら、こんなにも時間が経ってしまいました。薬剤師になって76年ですか? 早いものですね」
──ギネス世界記録になっているそうですね。
「今、私が薬剤師として勤務しているのは、息子が開店したヒルマ薬局小豆沢店(東京都板橋区)ですが、その店を取り仕切っているのが、孫の康二郎。4代目ですね。その孫が、“同じ仕事をずっと続けている、ということが評価されれば、世の中の働いている人たちすべてに、勇気を与えられるんじゃないか”と言ってきたんです。だからギネスに申請しよう、と。私は偉い先生でもありませんし、地区の薬剤師会の役職をやってきたわけでもありません。ただ、目の前にいる方に笑顔になってもらいたい一心で、ずっとこの仕事を続けてきただけ。そんな私が、ギネスに申請していいものか、と最初は躊躇しましたが、愚直に同じ仕事を続けていること、そして薬剤師という仕事に光が当たるならと、孫の勧めを受けることにしたんです」
──そもそもなぜ薬剤師に?
「父が大塚(東京)で薬局を開いていました。記録は残っていませんが、私が生まれる前からすでに開店していたようです。4姉妹の長女なのですが、妹もひとり、薬剤師になりました。やはり父の背を見て育った、というのが大きいのでしょう。ただし当時は、戦前です。女性は花嫁修業をすればいい、という時代でした。女性でも働けないだろうかと考えた時に、薬剤師という道が見えてきました。それで18歳の時に、東京女子薬学専門学校に入学しました。昭和16年のことです」
──太平洋戦争開戦の年です。
「ええ。女学校の友人たちは、次々と軍需工場に駆り出されていきました。私はたまたま理系の学校にいたことで、免れたようです。
昭和19年に卒業したあと、いったん製薬会社に勤めました。その後すぐ、薬剤師だった夫・金雄と結婚します。8歳年上の従兄で、知った仲でした。間もなく召集され、根室(北海道)の部隊に配属されてしまうのですが」
──不安な日々が続きます。
「父からも、“こんな時に会社勤めしている場合じゃない”と言われました。そして勧められるまま、会社を辞め、父の故郷の上田(長野)に疎開します。それが昭和20年4月11日のことです」
──日にちまで覚えているのですね。
「これには理由があるんです。なぜならこの2日後、東京大空襲があったからなんです。あの日の夜、何の気なしに外に出たら、東の空が真っ赤だった。なぜかとても綺麗でした。雲ひとつない夜空、東の空だけが真っ赤に輝いていた。目を閉じると、未だにあの時の光景が浮かびます」
──終戦はどこで迎えられたんですか。
「上田です。父も母も妹も無事でしたが、大塚にあった店と自宅は跡形もなく燃えてしまいました。夫は不幸中の幸いで、たまたま根室にいたため無事で、すぐに復員することができました。色丹や樺太などに派遣されていた部隊は、戻ってはこなかったようです」
──ゼロからの再出発です。
「人の少ない田舎では、薬局を開いてもやっていけません。それもあって戦後、一家で東京に戻ってくるのですが、見事なほど、東京には何もありませんでした。数軒のバラックがあるばかりで、一面焼け野原です。今、自宅のあるこのあたり(東京・北池袋)は、少し高台になっているのですが、ここから海が見えたんです。東京で地平線を見ることができるとは思いませんでした。これを絶望というのかもしれませんね」
──そこからどう立ち上がったのでしょう。
「私には命があった。亡くなった方がたくさんいるのに、私たち家族は助かった。家がなくとも、すべてを失ったわけではない、ということに気づいたのです。命があれば、再び立ち上がることができます。辛かったことですか? もちろん、日々の食べる物にすら苦労しました。でも泣き言をいっても仕方ありませんし、日々生きることに必死で、辛いと思う暇もありませんでした。何より私はこうして生きているじゃないか、ということが支えだったのでしょう。戦争があったけれど自分は生かされた、という思いは、今の私の人生に繋がっています」
「97歳の私が職場に立つことで“がんばろう”と思ってもらえる」
──ヒルマ薬局の歩みを教えてください。
「父も薬剤師、夫も私も薬剤師で、常に薬局に出ていましたから、ヒルマ薬局の歩みと私たち一家の歩みは重なるんです。昭和21年に長男が生まれて、翌年に長女が生まれて、そうね、子育ても仕事もとにかく必死で、たいへんなこともたくさんあったはずなのに、もう思い出せないわね(笑)。戦争を経験したせいで、少しのことではたいへんだと思わなくなっていたのかもしれません。昭和53年に父が亡くなりましたが、その頃には長男の英彦も薬剤師として独り立ちしていましたから、忙しかったけれど、幸せだったわね」
──その後、息子さんが独立したのですね。
「父が開いたのは、北池袋です。ヒルマ薬局小豆沢店は、息子が独立し、平成3年に開店しました。私たち夫婦が北池袋の本店を切り盛りし、息子夫婦が小豆沢店を経営していました。ありがたいことにどちらも繁盛しました。ところが好事魔多しと申しますか……」
──どうなさったのですか。
「過労がたたってか、息子の英彦が脳溢血で倒れてしまったんです。英彦には、健太郎、康二郎という息子──私にとっての孫がふたりいたのですが、下の康二郎はまだ中学生でした。息子の妻の公子さんもまた薬剤師で、小豆沢店を切り盛りしなければなりません。息子の病気、仕事、家族……すべてのことが押し寄せてきました」
──お辛かったことでしょう。
「いちばん不憫だったのは孫たちでした。彼らは学校から帰ってきても、すぐに母親に “おかえり”と迎え入れてもらえません。まだ寂しいと感じる年頃なのに、どうしてやることもできませんでした。ふとある時、公子さんが(住まいのある)本店で働けば、孫に寂しい思いをさせなくて済むんじゃないか、と気づいたんです。それで、息子夫婦と私たちとで、勤務するお店を交換しました。それ以来、私は小豆沢店に通い続けています」
──現在も毎日、店に出られているのですか?
「実は一昨年、ある手術をして、ずっとリハビリをしていたのです。ようやく治りかけて、仕事に復帰しようかという矢先、調子に乗ったのかしらね、玄関先で転んで骨折してしまったんです。昨年7月のことでした。入院は3か月におよび、退院してもリハビリの日々。ようやく歩行器を使って歩けるようになり、お店に戻ってくることができました。今年4月から、週1回、朝8時半から夜7時まで、働いています。5月には週2回、6月には週3回へと、少しずつ増やす予定です」
──引退の選択はなかったのですか?
「薬局に来る方が、“榮子先生と話したい”とおっしゃってくださる限り、私はお店に立ち続けます。父と働いていた頃から、誰もが気軽に立ち寄れる峠の茶屋のような薬局でありたいと思っていました。ありがたいことに、“榮子先生と話せるからこの薬局に来ています”という方もいます。自分の体や老いに不安を感じている方にとっては、自分よりも年上の97歳の私がこうして職場に立っているだけで、“私もがんばろう”と思えるのかもしれません。私にできることは、老いてもなお、働き続ける姿を見せることです」
「パソコンもスマホも難しいけど新しい挑戦はわくわくします」
──ご自身が皆を元気づけている。
「いえ、逆です。“榮子先生と話したい”と来てくださる方から、私が元気をいただいているのです。だって必要としてくださってるんですよ! そんな嬉しいことを言われたら、自然と体がしゃんとします」
──実際、話し込まれる方が多いですね。
「チェーン店の薬局だと、薬剤師の移動も頻繁なので、お客さまと話し込む、という関係は築きにくいのですが、ここは個人商店です。私を含めて、いつも同じスタッフがいる、という安心感があるのかもしれませんね」
──処方だけが仕事じゃないのですね。
「ええ、そうです。薬を処方することだけが仕事だと思ったことはありません。むしろ、お話を聴くことこそ、何よりも大切だと思っているんです」
──話を聴く。
「誰かに話を聴いてもらうだけで、心は軽やかになります。だから私のやるべきことは、安心して立ち寄り、気兼ねなく話していただけるお店にすることです。そうやって70 年以上、薬剤師を続けてきました。私は聴いている途中で、相手を否定しませんし、何かを強く勧めることはありません。その人の心の中にあることを、そっと肯定してあげることだけ。聴くこと自体が、その方にとっての『くすり』なのです。でも長話になってしまうのが玉に瑕ね」(笑)
──毎日の習慣があると伺いました。
「朝は誰よりも早く8時半に出勤すると決めています。そして薬局に着くと、誰もいない調剤室に向かって、深くお辞儀します。“今日も皆さんのために必要な薬を届けさせてください”と心で唱えるのです。そして、お店のスタッフや来てくださった方々を出迎えます。帰るのはいちばん最後です。がんばってくれたスタッフをお辞儀で見送って、薬局の一日が終わります」
──お体は辛くないのですか。
「体をおかしくしてしまっては、病院の先生や家族、スタッフに迷惑をかけてしまいますから、絶対に無理はしません。できる範囲でやっております。それに、朝晩のお辞儀は、ずっと続けてきたことです。単なる習慣かもしれませんが、習慣はやるべきことですから、やるべきことが目の前にあると、気持ちに張りが出ます。何をやろうかと悩むこともなくなります。でも繰り返しばかりじゃないんですよ。パソコンも覚えましたし、スマホでラインも送れます。私にとって、パソコンもスマホも難しい挑戦ですが、新しい挑戦はわくわくしますものね。習慣と挑戦を増やしていくことが、長生きの秘訣でしょうか」
──しかし老いや死はやってきます。
「誰にだって、いつかは順番がやってくるものでしょ? こういう仕事柄、たくさんの方の死も見てきました。夫も24年前に看取りました。ですから、死は怖くありません。いつ来るかわからないというだけ。正直なことをいうと、お父さん(ご主人の金雄さん)があの世から早く呼んでくれないかしらって思うこともあるけれど、こればかりは私が決められることではありませんから」(笑)
──ご主人が不在で寂しくはないですか。
「毎日、夫の仏壇に向かって、話しかけていますから寂しくありません。不思議よね。話しかけると、“そうか、よかったね”と声が返ってくるような気がするのです。夫は言葉少ないながらも、温厚で優しい人でしたが、その声が聞こえるの。たとえあの世にいても、声は届くのね。夫に話しかけると、いつも心が落ち着きます」
──明日も薬局に出勤ですね。
「幸せね。私を待ってくださる方がたくさんいるのだから」
比留間榮子(ひるま・えいこ)
大正12年11月6日、4姉妹の長女として東京・大塚に生まれる。薬剤師の父の後を追い、東京女子薬学専門学校(現・明治薬科大学)に進む。昭和19年に卒業し、製薬会社に勤務。すぐに8つ年上の従兄・金雄さんと結婚。戦後は、父親が立ち上げたヒルマ薬局を支える。今も店頭に立つ、ギネスが認めた「世界最高齢現役薬剤師」。著書に『時間はくすり』。
※この記事は『サライ』本誌2021年7月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/角山祥道 撮影/宮地 工 )