■豊臣秀吉のバテレン追放令により領地を失い旧友・小西行長を頼る
豊臣秀吉に従い功績をあげるものの、状況が一変する出来事が起こります。天正15年(1587)、豊臣秀吉は「伴天連(バテレン)追放令」を出し、キリスト教の弾圧へと方針を変えるのです。豊臣秀吉にキリスト教の信仰をやめるよう強く迫られるものの、高山右近は改宗を拒否。そのため、高山右近は大名の地位も領地も失ってしまいます。
同じくキリシタン大名であった小西行長を頼り、小豆島でかくまわれます。その後も、肥後(現在の熊本県)に移るなど、苦しい時代を過ごします。
■加賀前田家の客将として約25年間を過ごす
転々とする生活の後、かねてから親交のある前田利家によって、客将として金沢へ招かれます。天生18年(1590)の小田原攻めには、前田利家の家来として参戦しています。
前田利家が亡くなった後には、長男である加賀藩初代藩主・前田利長に仕えます。慶長14年(1609)、新たに築城することになった高岡城の縄張り(設計)を高山右近が担当したとされており、現在も高岡古城公園には高山右近の像が立っています。
前田利長は、 中国最古の詩集とされる『詩経』の一節から「高岡」と名付けました。しかしわずか5年後に前田利長は死去。元和元年(1615)の一国一城令により高岡城は廃城となり、未完の建物は破却されてしまいました。
■徳川幕府の禁教令により国外追放されマニラへ
高岡城の築城が進められている頃、またしても高山右近に苦難が訪れます。慶長18年(1613)、徳川幕府によるキリスト教の禁教令が出され、高山右近は国外追放となります。長年過ごした金沢に別れを告げ長崎へ、さらに長崎からフィリピンのマニラへと旅立ちました。慶長20年(1615)、マニラに到着は果たすものの、間もなく病によって最期を迎えました。
高山右近を通じて、大阪府高槻市とマニラ市は昭和54年(1979)に姉妹都市となり、マニラ市内のディラオ広場には高山右近像が建てられています。迫害を受けながらも生涯信仰を貫き通した高山右近。2017年には、ローマ教皇庁から殉教者として福者の列に加えられました。
キリスト教の信仰を守り通すため、領地や大名の地位を失った高山右近。小西行長や前田利家など旧友に助けられながら、各地で実績を残し続けました。そして、約28年間を経てもキリスト教への信仰は変わらず、海のはるか向こうで客死したのです。
※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。
写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。