写真・文/藪内成基
戦国時代から全国統一へと進んだ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」の元で仕えた武将は、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その選択の中で、出世を果たしたり、逆に左遷を命じられたり、全国を飛び回ることになった武将たちがいました。大異動が多かった武将を、赴任地の城とともに紹介し、戦国武将の転勤人生に迫ります。
今回は、豊臣秀吉のもとで出世を重ねながらも、九州攻めでの大失態を犯し追放。しかし、功績を挙げて再び秀吉の信頼を得て、徳川家康・秀忠親子にも重宝された、仙石秀久(せんごくひでひさ)を取り上げます。人気歴史漫画『センゴク』(講談社)の主人公としても知られています。
美濃に生まれ織田信長に見いだされる
仙石秀久は天文20年(1551)、仙石治兵衛久盛の子として、美濃国加茂郡黒岩(現岐阜県加茂郡坂祝町)に誕生。仙石氏は美濃の守護大名・土岐(とき)氏の支流ともいわれ、土岐氏に仕えていました。
土岐氏没落後には、新たに台頭した斎藤氏に仕官。永禄7年(1564)、仙石秀久が14歳のとき、斎藤氏は美濃攻略を進めていた織田信長に敗れてしまいます。しかし、仙石秀久は勇壮な風貌が気に入られ織田信長に臣従することになり、木下藤吉郎(豊臣秀吉)の部下に配属されます。若くして豊臣秀吉に仕えた仙石秀久はこの後、豊臣秀吉の家臣として波乱万丈の生涯を送ることになるのです。
秀吉のもとで淡路島や四国を転戦
天正10年(1582)に起きた本能寺の変による織田信長の死後、羽柴秀吉が天下の主導権を握っていきます。それに合わせるように天正11年(1583)、仙石秀久は淡路国(現在の淡路島)を与えられ洲本城主となります。四国攻めの水軍の城として、石垣の城として洲本城(現在の兵庫県洲本市)を築き始めます。
さらに同年には讃岐国(現在の香川県)を与えられ、高松城主に転じています。四国の雄、長宗我部(ちょうそかべ)家の讃岐侵攻を受けて、引田(ひけた)城(現在の香川県東かがわ市)に入城するものの、撤退に追い込まれてしまいます。
九州攻めの軍艦を務めるも大敗
天正14年(1586)、薩摩国(現在の鹿児島県)の島津家久が2万の軍勢を率いて豊後国(現在の大分県)に侵入。知らせを受けた豊臣秀吉は、仙石秀久を軍監(軍事の監督)に命じ、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・信親(のぶちか)、十河存保(そごうまさやす/ながやす)の軍勢が、豊後の大友義統(おおともよしむね)軍と合流しました。
大友・四国連合軍は戸次(へつぎ)川(大野川)を渡り島津軍と激突。島津軍先陣が退いた機を見て、大友・四国連合軍は追撃しました。すると茂みや土手に配された島津軍の伏兵による鉄砲による反撃。島津軍が得意とする戦法「釣野伏(つりのぶせ)」にはまり、後方も側面も攻撃を受け敗走してしまいます。
【関ヶ原の戦いでは徳川秀忠を支える。次ページに続きます】