写真・文/藪内成基

戦国時代から全国統一へと向かった織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」に仕える武将たちは、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その中には、出世や左遷によって、全国を飛び回ることになった者も少なくありません。激動の「異動」を経た武将の人生を、ゆかりの城とともにご紹介します。

今回は、豊臣秀吉に見いだされて出世を重ねたものの、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、晩年には徳川幕府と対立することになった、福島正則(ふくしままさのり)を取り上げます。

羽柴秀吉に取り立てられ四国で力をつける

福島正則は尾張国(現在の愛知県)に生まれ、親戚であった羽柴秀吉に幼少期より仕えました。武名を広める契機となったのが、天正11年(1583)の賤ヶ岳(しずがだけ)合戦です。

本能寺の変後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた羽柴秀吉と、織田家旧臣の中で有力であった柴田勝家との間で権力争いが勃発。これが、賤ヶ岳合戦に発展し、羽柴秀吉が勝利を収めます。目覚ましい活躍ぶりから、「賤ヶ岳の七本槍」 と称賛された7名の中でも、福島正則は恩賞では別格の扱いを受けたのでした。「賤ヶ岳の七本槍」には、後に「築城の名手」として名を馳せる加藤清正らがいました。

福島正則が廃城にしたとされる湯築城には伊予国守護所が置かれていた

福島正則が廃城にしたとされる湯築城には伊予国守護所が置かれていた

その後、羽柴秀吉の四国平定でも力を発揮し、大名として伊予に入部。湯築城(愛媛県松山市)を廃城にしたとされます。湯築城は日本100名城のひとつで、道後温泉と隣接する道後公園に外堀や内掘、土塁が現存。南北朝時代初期から史料にみられる歴史ある城で、室町時代以降は伊予国守護所として河野(こうの)氏による伊予支配の中心地でした。

秀吉から功績を認められ清須城主に出世する

四国平定後も、九州征伐や小田原攻め、朝鮮出兵で功績を積み重ね、清須城(愛知県清須市)の城主となります。清須は、京や鎌倉に連絡する往還と、伊勢街道が合流する交通の要衝であり、尾張の政治・経済の中心地でもある重要な場所でした。何より清須城と言えば、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの際、織田信長は清須城から出陣しました。織田信長にとって人生のターニングポイントを迎えた城ともいえます。

清須城を居城にしていた時期に、主君の豊臣秀吉が亡くなります。その後、福島正則は石田三成と対立し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、豊臣恩顧の大名でありながら東軍に所属。先陣を務めるなど、東軍の勝利に貢献します

応永12年(1405)、尾張国守護職であった斯波義重が建てたのが清須城の始まり

応永12年(1405)、尾張国守護職であった斯波義重が建てたのが清須城の始まり

清州公園に立つ「信長公出陣の像」

清州公園に立つ「信長公出陣の像」

【関ヶ原の戦いの功績により広島城を任される。次ページに続きます】

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