取材・文/ふじのあやこ
昭和、平成、令和と時代が移り変わるのと同様に、家族のかたちも大家族から核家族へと変化してきています。本連載では、親との家族関係を経て、自分が家族を持つようになって感じたこと、親について、そして子供について思うことを語ってもらい、今の家族のかたちを迫ります。
今回お話を伺ったのは、彰浩さん(仮名・36歳)。現在、大阪の企業で働いています。彰浩さんは現在バツ1で、小学校2年生になる男の子のお父さんです。26歳の時に結婚、そして31歳の時に離婚して、子供は別れた奥さんと一緒に暮らしています。
父親の起業から両親の仲は徐々に悪化していき、中学生の時に離婚へ
彰浩さんは兵庫県出身で母親と4歳下に妹のいる3人家族。彰浩さんが中学生の時に両親は離婚しており、そこから3人での生活が始まったそう。幼い頃の記憶として残っている父親は優しかったと当時を振り返ります。
「家は公団住宅の3部屋ほどの小さいところだったんですが、団地の前に小さな公園があったんです。そこでよく父親に遊んでもらっていました。そこはボールを使った遊びが禁止だったのでキャッチボールの記憶はないんですが、ブランコに乗ったり、砂場で何かを作ったり、よく一緒に遊んでもらっていた記憶が残っています」
薄っすらと覚えている家族団らんは楽しい記憶として残っているそう。しかし、父親の勤めていた会社が倒産してしまい、個人で仕事を始めた辺りから両親の関係はギクシャクしていったと言います。
「小学生の時に家に帰ると普段は仕事でいない父親が家にいたんですよ。そこから仕事がなくなったとかの話をされたんじゃないかな。詳しくはまったく覚えていないんですけど、子供心ながらにこれからの生活がどうなるんだろうと不安になり、泣いてしまったんです。その記憶が今も残っています。
父親は程なくして、同じ会社にいた父の友人と会社を立ち上げるんです。その頃から両親があまり一緒にいなくなりました。目の前でケンカをすることはなかったけど、夜中にいつまでも消えない居間の電気や両親の話し合う声がずっと聞こえていましたね。そしてその頃から父親はあまり帰ってこなくなったんです」
父親があまり帰ってこなくなったのと同じ時期に母親がパート勤務を始めます。そしてそこから妹の世話をするという義務ができて窮屈だったそう。
「母親はずっと専業主婦だったのに、急に知り合いの人に紹介されたと言って、ガス会社の事務の仕事を始めました。毎日夕方ぐらいまでだったけど、たまに遅くなる日もあって。当時妹はピアノを習いに行っていたんです。そこは家からそこまで遠くないけど小学生が遅くに一人で歩くのは危ないと言っていつも母親が迎えに行っていました。そして母親が勤めてからは僕が迎えにいかないといけなくなってしまって。当時は中学生でバスケ部に所属していたんですが、週1は部活を早退させてもらっていました。母親に頼まれたから仕方ないとは思っていても、当時はそれが嫌でしたね。1人で行動できないなら習い事なんかやめろよって思っていました」
【離婚後も定期的に会いに来てくれる父。次ページに続きます】