写真・文/藪内成基
戦国時代から全国統一へと進んだ織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。いわゆる「三英傑」の元で仕えた武将は、忠義を守りながら、時に家のために立場を変えながら生き残りを図りました。その選択の中で、出世を果たしたり、逆に左遷を命じられたり、全国を飛び回ることになった武将たちがいました。大異動が多かった武将を、赴任地の城とともに紹介し、戦国武将の転勤人生に迫ります。
今回は、豊臣秀吉とも徳川家康とも良好な関係を構築し、水運を生かした整備により、今も美しい景観を残す城下町を造ってきた田中吉政(たなかよしまさ)を取り上げます。
豊臣秀吉の甥・秀次の宿老として近江八幡の城下町整備を行う
田中吉政は、近江国(現在の滋賀県)に生まれ、若くから出世を重ね、ついには、羽柴(豊臣)秀吉の甥、羽柴秀次の筆頭家老(宿老)となります。羽柴秀次の居城として八幡山城(現在の滋賀県近江八幡市)を築き、田中吉政が在城。当時は、秀次が秀吉の後継者と考えられていたため、秀次が八幡山城を離れることが多く、田中吉政が留守を取り仕切っていました。後に秀次は秀吉の養子となりますが、豊臣秀頼の誕生を機に失脚。秀次が切腹した際、田中吉政は連座することなく、その後も加増を重ねていきます。
琵琶湖は当時の物流の要であり、城下南に琵琶湖とつながる「八幡堀(はちまんぼり)」を設けて、商船をつけるようにし、「近江商人の町」の礎を築きました。
小田原攻めの後、徳川家康に代わり岡崎城主となる
天正18年(1590)、小田原攻めでの功績を認められ、田中吉政は岡崎城(現在の愛知県岡崎市)に移ります。岡崎といえば徳川家康の誕生地であり、関ヶ原の戦いの後も岡崎城は徳川家の「聖地」として重視され、譜代大名・親藩が城主となった要衝でした。
江戸へと移った家康に代わり、田中吉政は岡崎の開発に力を注ぎます。防備のために町を囲む「田中堀」や矢作(やはぎ)川の築堤工事に着手。さらに城下を拡張整備し、東海道を城下町に引き入れた「二十七曲り」と呼ばれる屈折の多い道筋を造りました。城下防衛に加えて、街道筋に店舗が並び、旅人を滞留させる経済効果がありました。八丁味噌や陶磁器などの特産品も生まれ、東海道で三番目の規模を誇る宿場となります。
【関ヶ原の戦いでは東軍につき石田三成を捕える。次ページに続きます】