南北朝合戦の後醍醐方の轍を踏む

この光秀の敗北について、先述の福島さんは、光秀が首都である京都防衛にこだわったことが敗因であると指摘している。信長を殺害して以後、光秀は朝廷工作や五山と呼ばれる大寺院の歓心を買うことに腐心していた。

新たな天下人として認知されようという意図は明確だ。そして、たとえ表面的ではあっても、朝廷は光秀を天下の主として認めるかのような態度を示していた。天下人=武家政権の長としては、京都を死守しなければならない。秀吉勢を一兵たりとも京都市中に入れるわけにはいかない。

そのために、光秀は兵力を分散させたかと思えば、慌ててかき集めるという混乱ぶりを見せてしまった。兵の数で勝ち目がないならば、いったん坂本城に退いて秀吉勢を京都に引き入れ、毛利などと連動して秀吉勢を包囲するという作戦も考えられたはずだ。

南北朝時代、後醍醐政権に反旗を翻した足利尊氏を迎え撃つ際、楠木正成はいったん比叡山に逃れて尊氏勢を京に引き入れるという同様の作戦を提案したが、メンツにこだわる朝廷に却下されてしまい、結果として尊氏に敗れている。

光秀は、いわばこの轍を踏んでしまったのだという。

長篠の戦いの再現

一方、歴史作家で実証的な数々の論考を発表している橋場日月(あきら)さんは、独自の説を提唱している。

橋場さんはまず、光秀の失敗は、本能寺の変直後に近江国勢多城を守る山岡景隆・景友兄弟を敵に回し、瀬田橋を破壊されてしまったことであると指摘する。これにより、信長の本拠安土城の制圧が三日遅れてしまう。そのため朝廷の公認を得るのも遅れてしまい、その結果、筒井順慶らを味方につけることができなくなり、軍事行動も後手後手に回ってしまったという。

さらに、2011年8月、長岡京市にある恵解山(いげのやま)古墳で、堀跡が見つかった。航空写真などによる地形観察によると、この堀は往時には南北400メートル、東西200メートルに及んだと推測される。

橋場さんは、この堀跡が山崎の戦いにおける光秀の本陣だったと推定。さらに、光秀の念頭には、織田軍が武田軍を破った長篠の戦いの成功体験があったとする。光秀はもちろん長篠の戦いには参陣していないが、橋場さんの見解によれば、長篠で大量の鉄砲を用いた織田軍の戦略を立案したのは光秀で、長篠と同じ野外決戦となった山崎の戦いで、光秀はその再現を狙ったのではないかという。

長篠での織田軍は、設楽原を流れる連吾川の前に空堀と土塁を備える長大な陣城を築き、鉄砲の集中砲火を浴びせて武田軍を撃破した。その時と同様に、光秀は山崎を流れる小泉川の北側に大規模な防衛ラインを築いた。前出の堀跡は、その防衛ラインの一部が発掘されたものだ。ここに明智勢の全軍を集中。秀吉勢を十分に引き付けたうえで大規模な銃撃戦を展開し、敵陣が乱れたところを山崎の地に追い込んで殲滅しようとしたのではないか。

しかし、この目論見は数日降り続いた雨によって邪魔される。鉄砲が使えない明智勢は、ついにその実力を発揮することはできなかったのではないかと、橋場さんは推測している。

もちろん、長篠の戦いの戦略は、兵数において絶対的に有利であった織田方が描いたものであり、その点は兵数的に光秀勢が不利であった山崎の戦いとは事情が異なる。福島さんが指摘する「兵力分散」という状況との整合性にも疑問が残る。

今後、さまざまな仮説が立てられ、検証されることになるだろうが、非常に魅力的な説であることは間違いない。

敗れた光秀は、小栗栖付近の竹藪で落ち武者狩りに遭ったとされている。(10年前に撮影)

安田清人/1968年、福島県生まれ。明治大学文学部史学地理学科で日本中世史を専攻。月刊『歴史読本』(新人物往来社)などの編集に携わり、現在は「三猿舎」代表。歴史関連編集・執筆・監修などを手掛けている。

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