悲痛なり、光秀~身は病、妻をうしなう

荻野・波多野の両氏を敵にまわすことは困難と考えたのだろう、信長は黒井城の直正と和睦し、丹波攻略はいったん小休止のような状態となる。この間、光秀は大坂の本願寺攻めにくわわっていたが、6月ごろ陣中で病み、戦線を離れた。病名は不明だが、京で医師の治療を受けたこと、妻が平癒の祈祷を依頼したことが伝わっているから、かなり重い病であったろう。7月に入ってどうにか癒えたようだが、こんどは妻女が病床に伏してしまう。やはり快癒の祈祷をさせたものの、痛ましいことに、この年11月に亡くなったという記録が残っている。

光秀の妻・熙子については、拙著『逆転の戦国史』(小学館)にくわしく書いたが、夫の流浪時代を力強くささえたことが知られている。夫婦仲も睦まじかったと推測されるから、光秀の悲嘆も想像するに余りある。この1576年は、正月の敗走からはじまり、自身の病、妻の死と、立てつづけに悲運が光秀を襲った年でもあった。

ふたたび丹波へ

光秀が丹波攻略を再開できたのは、妻の死から1年ちかく経った1577(天正5)年10月。この年はまず、紀伊(和歌山県)の雑賀党、大和(奈良県)の松永久秀攻めに従軍、久秀が滅びたのち、ようやく丹波へ向かったのである。盟友・細川藤孝(幽斎)とその子・忠興の助けを得て、亀山城を落とすことに成功した。この城には丹波の元守護代である内藤氏が拠っていたが、のち光秀自身の居城となり、冒頭で記したように、ここから本能寺へ向けて出陣する因縁の場所である。このとき、降伏した敵をなおも攻撃しようとする忠興を、光秀が諫めたという話が知られている。忠興は翌年、娘・玉(ガラシャ)の夫となるが、この時点ですでに婚約が成っていたから、血気にはやりがちな婿を導かねばという気もちだったのだろう。

丹波での足もとをかためた光秀は、翌1578年の3月から、八上城の波多野氏攻めを本格化させる。裏切られ、敗走の憂き目を見てから、2年以上が経っていた。が、ここでも光秀は他のいくさ場へ転戦を余儀なくされる。いまだ決着を見ておらぬ対本願寺戦に従事しただけでなく、同僚である羽柴秀吉の援軍として播磨(兵庫県)へ派遣された。くわえて、やはり信長配下の将である荒木村重が謀叛の兵を挙げたため、この討伐にも参加している。光秀の娘(ガラシャの姉)は村重の嫡子に嫁いでいたから、彼も当事者のひとりと言えるわけだが、それにしてもただごとでない多忙さである。いささか安易な比喩ではあるが、全国を飛びまわるやり手のビジネスマンを連想せずにはいられない。

傷だらけの決着

ようやく八上城の攻撃に専念できたのは、1578年も終わろうとするころだった。こちらも大がかりな山城で、標高からいえば黒井城に100メートルもまさっている。包囲戦を決意した光秀は完全に外部との往来を絶ち、敵方の衰弱を待った。血路を開こうとする城方との衝突もあったらしく、当初から織田方へ協力していた国人・小畠永明がこの時期に討死している。

ついに城主・波多野秀治らが降伏したのは、1579年の6月。ながい包囲戦だったというほかない。籠城した側はむろんだが、囲んだ明智方も緊張と消耗を強いられたことだろう。ちなみに、このとき光秀が母を人質として八上城を開かせたものの、秀治らが信長に処刑されたため、怒った城兵に殺されてしまったという話が残っている。城主兄弟が安土で処刑されたのは事実だが、母のくだりは江戸期の創作と見られていることを付け加えておきたい。

これでようやく、丹波平定が成ったかに思えたが、最後の対手がのこっていた。ふたたび敵方へまわった黒井城である。ただし、猛将・赤井悪右衛門(荻野直正)はこの前年に没しており、おさない跡継ぎを一族の者がまもっている状態だった。前述のように黒井城は攻めるに難い山城だったが、八上城を落とし勢いに乗る明智軍にたいし、直正を欠く城方では勝負が見えている。これを降し、丹波平定を成し遂げたのが同年の8月。部下にきびしい信長が「天下の面目をほどこし候」と絶賛する成果だった。

丹波を領国としてあたえられた光秀は、亀山をみずからの居城とさだめ、黒井城には斎藤利三、福知山城(京都府福知山市)には明智秀満といった腹心を配した。この丹波を取りあげられることとなったのが本能寺の原因であるという説がながらく信じられてきたが、これも現在では否定されている。とはいえ、これほどの思いをして手に入れた土地であるから、もしそうした命令があったなら、承服しかねる思いをいだくのは当然のことだろう。俗説とされてはいるが、するどいところを衝いたものと思う。

冒頭で述べたように、丹波から都までは至近といっていい。光秀がこの地を領国としていなければ、彼の謀叛はかなり違ったかたちを取っていただろう。筆者は前述の拙著で本能寺の変についても考察したが、織田父子がわずかな手勢で京に滞在していたことなどを挙げ、信長自身が変の起こりうる状況を作りだしてしまったと述べた。ここでもまた、おなじ思いに囚われる。運命というものがあるとすれば、それは二重三重に逃れがたい網を張っているのかもしれない。

文/砂原浩太朗(すなはら・こうたろう)
小説家。1969年生まれ、兵庫県神戸市出身。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経て、フリーのライター・編集・校正者に。2016年、「いのちがけ」で第2回「決戦!小説大賞」を受賞。2021年、『高瀬庄左衛門御留書』で第165回直木賞・第34回山本周五郎賞候補。また、同作で第9回野村胡堂文学賞・第15回舟橋聖一文学賞・第11回本屋が選ぶ時代小説大賞を受賞。2022年、『黛家の兄弟』で第35回山本周五郎賞を受賞。他の著書に『いのちがけ 加賀百万石の礎』、共著に『決戦!桶狭間』、『決戦!設楽原(したらがはら)』、 『Story for you』 (いずれも講談社)がある。『逆転の戦国史「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』 (小学館)が発売中。

『逆転の戦国史 「天才」ではなかった信長、「叛臣」ではなかった光秀』
砂原浩太朗 著
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