マイルス・デイヴィスのアルバムというだけでなく、ジャズ・アルバム屈指のベスト・セラーである『カインド・オブ・ブルー』(コロンビア)は、チャート順位で見ると「ヒット・アルバム」ではありませんでした。それと並ぶ、マイルスの「ヒット作」として知られているアルバムといえば、『ビッチェズ・ブリュー』(コロンビア)でしょう。1970年にリリースされ、現在では「ロックやファンクの要素を大きく取り入れた、エレクトリック・マイルスの金字塔にして20世紀音楽の黙示録というべきベスト・セラー」(2013年国内盤・帯より)と紹介されているアルバムです。


マイルス・デイヴィス『ビッチェズ・ブリュー』(コロンビア)
演奏:マイルス・デイヴィス(トランペット)、ウェイン・ショーター (ソプラノ・サックス)、ベニー・モウピン(バス・クラリネット)、ジョン・マクラフリン(ギター)、ジョー・ザヴィヌル(キーボード)、チック・コリア(キーボード)、ラリー・ヤング(キーボード)、デイヴ・ホランド(ベース)、ハーヴェイ・ブルックス(ベース)、レニー・ホワイト(ドラムス)、ジャック・ディジョネット(ドラムス)、ドン・アライアス、ジム・ライリー(パーカッション)、(パーカッション)
録音:1969年8月19-21日


もったいぶってもしょうがないので、結論から先にいうと、これは間違いなく「ヒット」アルバムでした。アルバムの発売は1970年3月30日。『ビルボード』誌5月23日号には、「マイルスのこれまでもっとも速く売れているアルバム」という記事があり、すでに7万セット(2枚組LP)が売れていると記述があります。この時点で「Top LP’s」チャート(200位までの総合アルバム・チャート)で113位に登場しています。そして同誌7月4日号には、ニューヨークの「フィルモア・イースト」でローラ・ニーロとダブルビルのライヴを行なったというニュースが掲載され、チャートは35位に上昇。これがピークとなります。そしてアルバムは200位内に29週間留まりました。これは、ジャズに限定しない「ヒット」作といえるもので、もちろんマイルス最大のヒットといえる作品です。その後は、アメリカレコード協会(RIAA)が76年までに25万セット、03年までに50万セットの出荷を認定しています。

ちなみに7月4日号の「Top LP’s」1位はビートルズ『レット・イット・ビー』(アップル)、2位はポール・マッカートニー『マッカートニー』、3位は『ウッドストック(サウンドトラック)』(コティリオン)でした。上位には、ジミ・ヘンドリックス、サイモン&ガーファンクル、エルヴィス・プレスリー、ジャクソン5、フィフス・ディメンションらがひしめくポップス全盛時代。ジャズ・フィールドからのトップ40入りは、強い印象を残したに違いありません。

この号にはそのほかに「Best Selling Jazz LP’s」チャートも掲載されており、『ビッチェズ・ブリュー』は2位で、1位は『アイザック・ヘイズ・ムーヴメント』(エンタープライズ)でした(「Top LP’s」で9位)。今ではソウルに分類されるアイザック・ヘイズですが、当時はジャズのカテゴリだったんですね。「Jazz LP’s」の20位までにはハービー・マンが3枚、レス・マッキャンが2枚、ラムゼイ・ルイスが2枚入っていますから、ソウルとジャズがかなり接近していた時代だったことがわかります。逆に「Best Selling Soul LP’s」を見ると、『ビッチェズ・ブリュー』は21位に入っています(その後『ビッチェズ・ブリュー』は「Jazz LP’s」では1位、「Soul LP’s」では4位まで上昇)。

もう少し詳しく周辺を見てみましょう。「Jazz LP’s」チャートの3位はレス・マッキャン&エディ・ハリス『スイス・ムーヴメント』(アトランティック)、4位はクインシー・ジョーンズ『ウォーキング・イン・スペース』(A&M/CTI)、5位がキャノンボール・アダレイ『カントリー・プリーチャー』(キャピトル)となっています。『カントリー・プリーチャー』は「Soul LP’s」ではマイルスの上をいく17位にランクインしています。オーソドックスな4ビート・ジャズはまったく蚊帳の外。その一方、ソウルやファンクの要素の強いジャズ(あるいはその逆)はどんどん越境して他ジャンルのチャートにも進出、という構図が見えてくるようです。


キャノンボール・アダレイ『カントリー・プリーチャー』(キャピトル)
演奏:キャノンボール・アダレイ(アルト&ソプラノ・サックス)、ナット・アダレイ(コルネット、ヴォーカル)、ジョー・ザヴィヌル(キーボード)、ウォルター・ブッカー(ベース)、ロイ・マッカーディ(ドラムス)
録音:1969年10月
『ビッチェズ・ブリュー』のライバルその1。『ビッチェズ・ブリュー』とこのアルバム両方にジョー・ザヴィヌルの名前があるのに注目。ザヴィヌルは当時キャノンボールのグループに在籍中だったのです。

クインシー・ジョーンズ『ウォーキング・イン・スペース』(A&M/CTI)
演奏:クインシー・ジョーンズ(編曲、指揮)、フレディ・ハバード(トランペット)、J.J.ジョンソン(トロンボーン)、ヒューバート・ロウズ(フルート)、トゥーツ・シールマンス(ハーモニカ、ギター)、ボブ・ジェイムス(キーボード)、エリック・ゲイル(ギター)、チャック・レイニー(ベース)、グラディ・テイト(ドラムス)ほか
録音:1969年6月18、19日
『ビッチェズ・ブリュー』のライバルその2。『ビッチェズ・ブリュー』は参加メンバーのその後の活動から「フュージョンの原点」的な見方もされますが、こちらも同様。この時期はまさに時代の変わり目だったのですね。

では、『ビッチェズ・ブリュー』の前と後はどうだったのか。1960年代から一時引退の76年まで、マイルスのリアルタイムの『ビルボード』チャート・イン作品は、『ビッチェズ・ブリュー』のほかに13作あります。いくつか紹介しましょう。

『セヴン・ステップス・トゥ・ヘヴン』62位(1963/10/5)
『クワイエット・ナイト』93位(1964/5/23)
『イン・ヨーロッパ』116位(1964/11/21)
『イン・ア・サイレント・ウェイ』134位(1969/9/6)
『アット・フィルモア』 123位 (1971/1/2)
『オン・ザ・コーナー』156位(12/9/1972)
『ビッグ・ファン』179位(1974/7/6)
『アガルタ』168位(1976/4/3)
(チャート最高位とその日付。レーベルはすべてコロンビア)

これを見ると、『ビッチェズ・ブリュー』は「越境ヒット」という特別なアルバムであり、それがなくとも60年代からのマイルスはつねに高い人気があったといえます。驚くのは、10数年の間に音楽は別人のように変貌しているにもかかわらず、というところ。この安定ぶりの要因はどこにあるのでしょうか。また謎が増えましたね。

文/池上信次
フリーランス編集者・ライター。専門はジャズ。ライターとしては、電子書籍『サブスクで学ぶジャズ史』をシリーズ刊行中(小学館スクウェア/https://shogakukan-square.jp/studio/jazz)。編集者としては『後藤雅洋著/一生モノのジャズ・ヴォーカル名盤500』(小学館新書)、『ダン・ウーレット著 丸山京子訳/「最高の音」を探して ロン・カーターのジャズと人生』『小川隆夫著/マイルス・デイヴィス大事典』(ともにシンコーミュージック・エンタテイメント)などを手がける。また、鎌倉エフエムのジャズ番組「世界はジャズを求めてる」で、月1回パーソナリティを務めている。

 

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