日本を代表する夫婦漫才師、宮川大助・花子の花子さんが2019年に多発性骨髄腫を患ってから5年。完治しない病気と日々闘っている花子さんの闘病と、それを献身的に支える大助さんの日々を時にシリアスに、またユーモラスなタッチで、ありのままをつづった『なにわ介護男子』(主婦の友社)。厳しい病状も大変な介護やリハビリもユーモアに変えてしまうのは、日本の夫婦漫才を引っ張ってきたお二人ならでは。

「<なにわ男子>もカッコいいけど、<なにわ介護男子>も顔の大きさと年齢では負けてへんぞ、いや、カッコよさでも負けてないぞ、と世の中に伝えたい」と花子さんは言います。この本は、大助くんに、花子さんから贈る感謝状なのです。第2回目は、重病患者とは思えないほど、明るく前向きである花子さんの想いをご紹介します。

退院までを描いた前作『あわてず、あせらず、あきらめず』(主婦の友社)と併せて読むのもおすすめです。

著/宮川大介・花子

なにわ介護男子、本格デビュー

放射線治療で入院していたときの話しをしましょう。このとき、じつは想像もしなかった新たな症状に苦しんでいました。退院を目前にして右足がまったく動かなくなったのです。この後、MRI検査を3回受けることになるんですが、脳にも首にもまったく異常は見つからず。じつは、いまだに原因はわかっていません。しかし現に、右足はまったく動かなくなっているため、寝たきり同然。入院するまでは一人でトイレにもお風呂にも行けていたのに、それすらできなくなってしまったのです。退院を控えて、一番の難題は夜間のトイレでした。バルーンカテーテル(医療用の管を尿道から膀胱まで通して入れたままの状態にし、尿を膀胱にためずに畜尿袋と呼ばれる袋の中にためる仕組み)を使おうということになったのですが、問題は、誰が管を尿道に挿入するかです。先生と看護師さんが病室で「月水金に来てくれる訪問看護師にお願いするのはどうでしょう」「うん、それが一番いいかもしれない」などと真剣に話し合っていたときでです。

「僕、やりましょか」

どこからか聞き慣れた声がするなと思ったら、大助くんがあの顔で手を挙げているじゃありませんか。先生も看護師さんも驚いて、「えっ? ほんまですか!?」と。まさか夫の大助くんが立候補するとは思わなかったんでしょうね。でも、大助くんが至って本気な表情なのを見て、病院と自宅で看護師さんの指導のもと練習してみることになったんです。そしたら大助くんの上手なこと! ひと通りやり方を教わったら、管を手にして「ほな、いくで」と言うと、一発で尿道にスッ!「えっ? もうできたん?」と私がびっくりしたくらいです。看護師さんも「初めは皆さん怖がるのに、大助さんには迷いがない」と絶賛。みんながあまりにほめるので、気をよくしたんでしょう。大助くん、「いやあ、もう長いことお世話になったとこですから」。

渾身の下ネタです。でも、誰も笑いません。皆さん、聞こえなかったふりをしてスルーです。それがよけいにおかしくて、私は心の中で爆笑していました。30年前だったら、こんなこと絶対に言えなかったですもん。この年になったからこそ、サラッと言えるんです。さすが大助くん。いつか必ず漫才のネタにしようと思いました。

11月中旬、約1か月ぶりの退院を迎えました。大助くんは病院を出るときからそわそわした様子で、「めっちゃええ車椅子、用意しといたからな」と言っていました。私が家で暮らしやすいように新しい車椅子を用意してくれたんです。「ありがとう!」と感謝を伝え、帰宅後、さっそく車椅子に乗せてもらったんですが……どうもしっくりきません。手がハンドリム(手でこぐときにつかむところ)に届かないし、足もブラブラと浮いたままです。大助くんはそれには気づかず、満面の笑顔のまま私の顔をじっと見ています。
「ええやろう、それ」
「うん。でも、どうやって動かすの?」
「なんでやねん。いつもみたいに動かしたらええねん」
「そやからやってるやんか。でも手も届かへんし、足も浮いて届かへんねん」
「えっ?」
「ただのロッキングチェアやで」
そこにいた全員、爆笑です。どうやらサイズを間違っていたみたい。後日、交換してもらいました。

右足がまったく動かなくなって、いったいこれからどうなるんだろうと落ち込んでいた私も思わず笑ってしまいました。これまでも大助くんのおもしろいところをあれこれ書いてきましたが、そのたびに救われてきたんです。人間、病気をすると「みじめに見えてないやろうか」という不安がぬぐえません。「体の大きい大助くんが、背中丸めて嫁の介護をしていたら、みじめに見えるんちゃうか。私のせいで申し訳ない」と、どうしても思ってしまうんです。でも、大助くんがいちいちおもしろすぎるから、深刻にならないんですよ。実際にやっていることは大変なことばかりです。介護はしんどいことの連続。毎日、何百回もうさぎ跳びをしているみたいなものだと思います。でも、大助くんは「うさぎ跳びして」って言われたら、「よし、わかった!」と張りきって、うさぎの着ぐるみをかぶってくるみたいなところがあるんです。だから吹き出してしまう。ほんまにおもしろすぎます。

血圧測定でもおしめ替えでも、
どんなときもおもしろすぎる大助くんに助けられている

患者としての私の流儀

なにはともあれ、右足がまったく動かなくなった原因を探る必要がありました。先生方は「MRIを撮りましょう」とおっしゃるのですが、私、極度の閉所恐怖症なんです。だから発病した当初から、「MRI検査だけは勘弁してくだ
さい。絶対に嫌です」と伝えてきました。でも、「脳神経内科の先生が、どうしても調べたいと言っているから」と説得されて、仕方なく同意することに。精神安定剤を飲んで臨んだのですが、途中で耐えられなくなり大声で叫んでしまいました。看護師さんに鎮静剤の注射を打たれたみたいで、目が覚めたら病室のベッドの上。そんな大嫌いなMRI検査を3回もやったんです。その結果、脊髄も脳も首もまったく異常なし。結局、原因はわからないままでしたが、どこも悪くなかったことには少しほっとしました。

苦手なMRI検査をがまんしたんですから、自分にごほうびをあげても罰はあたらないでしょう。私は昔から甘いものに目がありません。看護師さんに頼んで院内のコンビニに連れていってもらい、大好きなソフトクリームを食べることにしました。その様子を「ソフトクリーム、おいしい!」とSNSに上げたら、いろいろな人が「ほんまにいつも楽しそうやなあ」って。「いや、楽しくないで。苦しんかったんやで」って返しましたが、よっぽど能天気に見えたんでしょうね。あれだけMRI検査でつらい思いをしたあとに、ケロッとしてご機嫌にソフトクリーム食べる患者なんて、確かに私くらいかもしれません。

このときに限らず、「どうしてそんなに前向きでいられるんですか」とよく聞かれます。答えは、至ってシンプル。前を向くしかないから。明日を見つめて進むしかないからです。でも、最初からこうだったわけじゃありません。私、もともとはマイナス思考の人間なんです。2年ほど前までは、朝、目が覚めると「はあ、生きてた」「まだ生きてる」とため息をつくのが習慣でした。そう言うと大助くんが嫌な顔をすることには気づいていましたけど、つい口からもれてしまうんです。それくらい「生きるってしんどいなあ」と毎日思っていました。でも、ある日、大助くんが言ったんです。「マイナス思考はやめようや」って。「毎朝『生きてた』って言われる立場にもなってくれよ。僕も『よかったなあ』って言えるくらい人間ができてたらいいんやけど、つらそうにため息つかれたら、聞いてて悲しくなる」って。ほんまにそのとおりやと思いました。それからは一切言わないようにしています。

もうひとつ、よくあるのは「花子さんは、お医者さんや看護師さんたちと、どうしてそんなにいい関係がつくれるんですか」という質問です。患者さんやご家族の中には、お医者さんたちとうまくコミュニケーションをとれず、不信感をもつ人が多いみたいですね。私はちょっと変わっているのかもしれませんが、病院の先生方に限らず、誰かに対して「嫌な人やなあ」と思ったことがないんです。そもそも好き嫌いがありません。だから、誰とでも打ち解けられるんでしょう。でも、これも昔からそうだったわけじゃありません。若い頃は、口も行儀も性格も悪かったですから。この世界に入っても師匠や先輩方に敬語が使えなくて、あの西川のりお・上方よしおさんにも「のりやん、よっしゃん」なんて平気で呼んでいたくらいです。大助くんがいちいち「年上に対して、そんな言い方はあかん」と叱ってくれて、人間関係のルールを基本から教えてくれました。

それにしても私は、今いくよ・くるよ師匠、ザ・ぼんちさん、明石家さんまさん、笑福亭鶴瓶さん……たくさんの方に本当によくしてもらいました。これまで出会ったやさしい先輩方や仲間が、私を少しずつ変えてくれたんだと思います。闘病生活は、お医者さん、看護師さん、リハビリの先生、作業療法士さん、薬剤師さん、病室を掃除してくださる方など、たくさんの方たちの総力戦です。私は、その神輿に乗っているだけ。だから、できるだけいつも明るく笑顔で感謝を伝えるようにしています。

闘病には皆さんの力をお借りしています。
だから私はいつも笑顔で

多発性骨髄腫ってどんな病気ですか?

血液のがんのひとつです。血液細胞のひとつである「形質細胞」が、がん化して異常細胞(骨髄腫細胞)になることで起こるもの。「形質細胞」と言ってもピンとこないかもしれませんが、じつは、とても重要な役割を担っています。それは、体内に入ってきた病原菌やウイルスなどの異物と闘う「抗体」をつくることです。ところが、これががん化すると異物を攻撃する能力のない抗体(M蛋白)をつくり続けてしまう。多発性骨髄腫とは、体のあちこちの骨髄で異常な形質細胞(骨髄腫細胞)と、役に立たない抗体(M蛋白)が増え続け、全身でいろいろな悪さをする病気です。

宮川大助・花子の人生劇場年表

1980年~1986年 数々の漫才コンクールや賞レースで新人賞・奨励賞を獲得。その人気を不動のものにする
1988年   花子 胃がんで手術・入院
2007年2月 大助 脳内出血で倒れて入院
2017年   大助 腰部脊柱管狭窄症で入院・手術、感染症で再入院・手術、グラム陽性菌敗血症で再々入院
2019年1月 花子 奈良県立医科大学附属病院にて多発性骨髄腫と診断される
2020年4月 花子 退院
2021年12月 奈良県生駒市・たけまるホールの寄席に夫婦で出演。2年半ぶりに舞台復帰
2022年4月 なんばグランド花月での吉本興業創業110周年特別公演にゲスト出演
2022年10月 花子 抗がん剤の副作用で肺に水がたまって心不全の状態となり、心臓カテーテル手術を受ける
2023年9月 花子 右の頭の骨に形質細胞腫が見つかり放射線治療のため入院
2024年4月 なんばグランド花月本公演に出演

*  *  *

なにわ介護男子
著/宮川大助・花子
主婦の友社 1,650円

宮川大助・花子(みやがわだいすけ・はなこ)
夫婦漫才の第一人者。大助は1949年10月3日、鳥取県生まれ。会社員を経て、浪曲漫才の宮川左近に弟子入り。ガードマンの仕事をしながら100本の漫才台本を書く。漫才ではネタ作りとツッコミ担当。花子は1954年8月28日、大阪府生まれ。大阪府警に入庁後、チャンバラトリオに弟子入り。漫才ではボケ担当。76年に結婚、79年にコンビ結成。87年上方漫才大賞の大賞受賞。2011年文化庁芸術選奨 文部科学大臣賞 大衆芸能部門、17年紫綬褒章。19年12月、花子が自らのがんを公表。2023年5月に大阪・なんばグランド花月に復帰。徐々にステージやテレビ、ラジオ出演を増やしている。著書に『あわてず、あせらず、あきらめず』(主婦の友社)ほか。

 

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