文/川村隆枝
介護施設には、さまざまな入所者が暮らしています。
ときには、予期せぬ行動で私たちを驚かせることがあります。
例えば、いきなり食事をしなくなった藍沢さん。
スタッフからは、ときおり幻覚を見ているという報告を受けていましたが、食事を拒否するようになるとは予想もしていませんでした。
「飲み物は? 薬も飲まないの?」
半ば諦めの表情を浮かべる桑原師長を見て、察しはつきました。
「じゃあ、点滴で水分補給だけでも」
「それもダメだと拒否しています」
まるで駄々っ子です。
だからといって、無理やり点滴をしたり、食事を摂ってもらうわけにはいきません。
こういうときはしばらく様子を見るのがベスト。藍沢さんは、お茶を二〇〇cc飲んだところで、点滴を受けつけてくれました。
「トイレから帰る途中に動けなくなって、自分でまずいと思ったらしいですよ」
そんな彼女の姿を見逃さずに、「水分補給をしましょう」と、藍沢さんに声をかけたスタッフの手際のよさは見事でした。
そのすぐ後でした。藍沢さんが私に話をしたいという連絡が入りました。
今度は何をしようと考えているのかな。
早速、部屋を訪れると、藍沢さんは申し訳なさそうな表情で話しかけてきました。
「すべて自分のわがままでした。だから、川村先生に謝ろうと思って。初めて会いますけど、本当にすみませんでした」
実は藍沢さんと私は何度も顔を合わせています。でも、認知症で忘れてしまっているのです。だからといって、彼女の言葉を否定すると混乱するだけ。彼女は私と初めて会っていると思っているのですから、そのまま受け入れてあげることです。
「大丈夫ですよ、藍沢さん。はじめまして。施設長の川村です。また何かあればお話ししましょうね」
これで、すべて丸く収まります。
入所者が日々、何を思いながら暮らしているのか。何に安らぎを感じるのか。
私たち介護施設の人間は、常に想像する必要があります。
入所したばかりの頃の馬場さんは、いつも不機嫌でした。
馬場さんは八四歳。認知症と診断されてから誤嚥性肺炎を繰り返し、老人性うつ病やパーキンソン病を発症し、自力で食事ができなくなったところで入所してきました。
不機嫌だったのは、七五歳まで畑仕事ができたのに、思うように体が動かせないことに、イラ立っていたのかもしれません。
馬場さんに近づいただけで、怒鳴り散らされたスタッフもいたようです。
わかりやすい八つ当たりですね。
だからといって、馬場さんのイラ立ちをそのままにしていると、スタッフがサポートをしづらいのはもちろん、馬場さん自身も楽しくないはずです。
そこで桑原師長が入所前に手に入れた情報を使いました。
老健たきざわでは、入所前には必ず、入所者のことを家族に聞くようにしています。
そこで得た情報によると、自宅にいた頃の馬場さんの趣味は、歌と踊り。
「ここでも音楽を聴かせてあげたいですね」
「機嫌が悪くなったら、音楽で落ち着くかもしれません」
そんな話を聞いていたので、入所するときに、馬場さんお気に入りの曲を用意してもらっていました。
結果は、家族の言う通り。
大好きな曲が流れ始めると、馬場さんは気分が落ち着いたようで、怒鳴り散らすことは少なくなっていきました。
川村隆枝/1949年、島根県出雲市生まれ。東京女子医科大学卒。同医大産婦人科医局入局。1974年に夫の郷里の岩手医科大学麻酔学教室入局、同医大付属循環器医療センター麻酔科助教授。2005年(独法)国立病院機構仙台医療センター麻酔科部長。2019年5月より、岩手県滝沢市にある「老人介護保険施設 老健たきざわ」施設長に就任。