文/鈴木拓也
「金花糖」(きんかとう)という名の、古くから伝承されてきた砂糖菓子がある。作り方は、鯛や松茸などをかたどった木型を合わせて、そこに煮詰めた砂糖を流し込んで固め、彩色するというもの。
発祥については詳らかではないが、鎖国後に整備された長崎街道(シュガーロード)を通って、関東・北陸まで伝わってきたのは間違いないという。となると、その祖形は、有平糖や金平糖の親戚筋にあたる南蛮菓子だったのだろう。
江戸時代に書かれた『守貞満稿』によれば、金花糖が江戸市中に広まったのは嘉永年間(19世紀半ば)。結婚式の引出物や、正月や端午節などの祝いの席には金花糖が欠かせなかった。
昭和の初期まで各地で作られていた金花糖だが、繊細な作業が機械化・大量生産に向かず、作り手が激減。今では、金沢をはじめ一部の地域でしか見ることができない。
東京でも、金花糖を作り続けているのは、今やただ一人。「江戸駄菓子 まんねん堂」(台東区下谷)の代表を務める鈴木真善さんだ。
「ここから近い旧浅草芝崎町の界隈は、かつてお菓子屋さんが50軒くらいあったのです。そこで金花糖を作られていた方が廃業し、そこの木型を受け継ぎ、6~7年前から私が作り始めました」
そう語る鈴木さんは、消え入りそうな伝統を残そうと奮闘する悲壮感の代わりに、前向きな意気込みを発散する陽の人だ。製造の傍ら、金花糖の素晴らしさを広めようと、一般向けの絵付けワークショップなどを精力的に行っている。
さて、金花糖はどのように作られるのだろうか。鈴木さんの工房を訪れ、その工程を見せていただいた。
「金花糖は、原料は砂糖と水だけという非常にシンプルなお菓子ですが、製造には細心の注意を必要とします。まず、砂糖を専用の銅製容器で煮ます」
そう話しながら、ふつふつと沸騰している砂糖水をかき回す。煮詰めるのに、20分くらいかかるという。
工房内には様々な木型があった。福助人形のような縁起物が主だが、幾つものパーツに分かれた大石内蔵助や、大砲と兵士という戦時中に作られたものもある。この時期(2月)だとお雛様の金花糖の需要が増えるそうで、たくさんの完成品が置かれている。
今回は、比較的大きな招き猫を作ることになった。
「招き猫は3回やって1回くらいしか成功しない難しい型なのです」と、鈴木さんは屈託なく笑う。とにかく歩留まりが悪いのが、金花糖製造の泣き所だそう。
鈴木さんは、招き猫の木型を合わせて輪ゴムで固定する。猫の足の側を天井に向け、そこに熱く煮詰めた砂糖を注ぎ込む。
ややあって、余分な砂糖水を除いて、中空にする。
しばらく待って、砂糖水を冷ましてからタイミングを見計らって、木型を分離する。そこには、真っ白い招き猫の姿があった。
「きれいにできましたね」と、鈴木さん。
工程はこれで終わらず、閉所でサーキュレーターを使って人工乾燥した後に自然乾燥を行う。これだけで約3日かかるという。最後に色付けを行いラッピングして、工房のすぐ近くの直営店の棚に並べられる。
全てが手作業というこの製法は、江戸時代から変わっていない。
「現代でも結婚式に鯛の形をした砂糖菓子が使われますが、それは金花糖の簡易版のようなものです。都内ではもううちだけですが、なんとか次の世代に残していきたいですね」と、鈴木さんは語る。
また、金花糖を残すための取り組みとして、「全国金花糖博覧会 春を呼ぶお砂糖人形展」を主催するという。これは、金沢や佐賀など各地に残る金花糖を集め、歴史・文化などを紹介するという趣旨で、きたる2月21~24日に浅草公会堂で開催される(入場無料)。
興味を持たれたら、一度訪ねてみてはいかがだろう。
●江戸駄菓子 まんねん堂
住所(本店):台東区下谷2-18-9
電話:03-3873-0187
営業時間:9:30~19:00(土日定休)
公式サイト:https://kinkato.com/
文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は散歩で、関西の神社仏閣を巡り歩いたり、南国の海辺をひたすら散策するなど、方々に出没している。