一方、「手繰る」だが、これも広辞苑でひいてみよう。意味は「両手を交互に使って手もとへ引き寄せる」とある。さすがに蕎麦を食べるのに、両手を交互に使って手もとに引き寄せて口に入れる人は、いないだろう。いや、ひょっとしたらどこかにいるかもしれないので、「いないだろう」ではなく「少ないだろう」と書いておこうか。
蕎麦を手繰るという言い方は、いかにも粋を気取った江戸っ子が好んで使いそうな雰囲気があって、江戸の大衆食であった蕎麦にはぴったりの言い方だと思う。その語源をたどると、もともとは江戸時代の大工さんの隠語で、蕎麦のことを下縄(さげなわ)と呼んだことから始まったといわれている。下縄とは、土蔵の木舞(こまい)に結んで下げた縄で、土壁に塗り込んで壁の強度をあげる目的で使う。「縄」だから「手繰る」。ここから「蕎麦を手繰る」という言い方が広まったようだ。
噺家なども好んで、「手繰る」を使う。岡本綺堂の小説『半七捕物帖』でも、この言葉が使われている。
温かい蕎麦の甘汁の中に入った蕎麦は、ちょっと手繰りづらいかもしれない。手繰るのは、やはり、冷たい蕎麦だろう。
しかし「手繰る」という言い方は、文字で書く場合は抵抗ないのだが、自分の口から言葉にするとなると、粋がっているみたいで気恥ずかしさを覚えることもある。食べ方や味の表現というのは、なかなか難しい。
蕎麦は何も考えず、ただおいしいなあと思って食べるのが一番だ。取材で長時間、車を走らせて、サービスエリアで立ち食い蕎麦を食べるときなど、仕事のことは忘れて、ただ「おいしいなあ」と思って食べる瞬間がある。そういうときの蕎麦は、どこかの有名店の手打ち蕎麦より、ずっとおいしかったりする。
文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。