文/藤田若菜(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館)
越前朝倉氏5代100年の夢の跡、一乗谷朝倉氏遺跡(福井市)。美濃から逃れた明智光秀が朝倉義景を頼ったことが『麒麟がくる』で描かれたことで脚光を浴びている。ドラマの中でも美しい朝倉氏館の庭園が美術スタッフによって再現されたが、なぜ戦国大名は館の中に庭園を築いたのか。一乗谷朝倉氏遺跡資料館の藤田若菜文化財調査員がリポートする。
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戦国大名たちが庭園を必要とした理由とは……?
NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の明智光秀邸の庭園や朝倉義景館の庭園を、皆さんはご存知でしょうか。
光秀邸の庭園は、長谷川博己さんが演じる光秀の食事のシーンなどで見られ、枯山水様の庭園がシーンに風格と彩りを添えていました。光秀邸のみならず、戦国領主の屋敷や館に庭園がつくられているのは、ドラマの演出だけではありません。近年の調査・研究により、戦国領主の屋敷や館の庭園には、重要な役割があったことが明らかになってきているのです。
信長に仕える以前の光秀邸に庭園があったかは定かではありませんが、義景のように一国以上を統治するような守護級の館跡では、発掘調査によって庭園の痕跡が次々と見つかっています。絶え間ない戦闘状態が続いた戦国時代。その一方で、戦国社会において庭園はなぜ必要とされたのでしょうか。
戦国時代の幕開けとされる応仁の乱以前、守護大名は京都において公家等の文化人や将軍主催の和歌会などに招かれることがあり、また応仁の乱以後は、戦乱の京都を追われた文化人等が地方の城下町等に身を寄せ、都の文化を地方へと伝播させました。
和歌会や戦国時代に流行し始める茶会などの文化サロンに参加するためには、守護大名たちは武力だけでなく文化力を磨く必要がありました。また、京都を追われた文化人等がもたらす教養を獲得するためには、文化サロンの舞台を自国に整える必要があり、その舞台に欠かせなかったのが庭園でした。
文武両道の武人こそが真の武士である
武士の間には、「文武両道の武人こそが真の武士である」とする観念が伝統的にあったことが知られています。武力に秀でるだけではなく、文化への造詣の深さが統治者としての権威や能力を示すことであり、軍事的統率だけでは多くの武士を従える統治者にはなれなかったのが戦国時代だったのです。
特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡では、当主である朝倉氏一族の館および寺院、家臣の武家屋敷や医師の屋敷等において、15カ所以上という全国に類を見ない多数の庭園遺構が発掘調査によって見つかっています。これらの庭園遺構は、当主のみならず家臣等も文武両道を求められ、和歌会や茶会等の舞台となる庭園空間を必要としたことを窺わせます。
一方、都人などの客人を迎えた記録がない、職人等が暮らした小さな敷地の町屋では、庭園遺構が1カ所も見つかっていません。このことからも庭園には、客人を迎えるための「しつらえ」の役割があったと推定できます。
一乗谷のみならず、庭園遺構は各地の戦国大名の館跡などで見つかっています。具体例を挙げれば、岐阜城跡の麓の織田信長館跡や、周防国等を中心に治めた大内氏の館跡、豊後国等を中心に治めた大友氏の館跡、北条氏の館跡と推定されている小田原城内の曲輪跡などです。
個性豊かな庭園遺構が見つかっており、戦国大名たちは庭園空間を舞台とし、文化への造詣を深めることで文武両道に努め、自国の安定を図っていたのでしょう。
永禄11年(1568)5月17日には、一乗谷の栄華を物語る最大の儀式といえる足利義昭の御成が、朝倉義景の館で行われました。華やかな饗宴が繰り広げられた一方で、足利義昭が一乗谷に滞在中、義景の子息である阿君(くまぎみ)が毒殺される事件が発生しました。
落胆したであろう義景の心を慰めたのは、もしかしたら庭園の滝石組から流れ落ちる清らかな水音や、苔むした石組の寂びた景色であったのかもしれません。
戦国大名の権威の象徴やもてなしの空間としての庭園の役割を中心に紹介してきましたが、明日をも知れぬ日々を過ごす大名たちが心の儘に庭園を眺め、安らぎを得たり、心震わせたりする瞬間もあったのではないかと想像されます。
戦国時代を物語るポイントの一つとなる庭園にもぜひ注目いただき、今後のNHK大河ドラマや全国の戦国時代の史跡・名勝等を楽しまれてみてはいかがでしょうか。
文/藤田若菜(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館)昭和61年、宮城県生まれ。千葉大学園芸学部緑地・環境学科卒業。平成20年より福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館の文化財調査員を務める。日本庭園学会理事。日本庭園史/戦国期の庭園史を中心に調査・研究を実施。主な著書に『戦国一乗谷の庭園』(福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 企画展図録)他。