取材・文/坂口鈴香
一人娘である中澤真理さん(仮名・54)は東京に住み、両親は九州で二人暮らしをしていた。父、要さん(仮名・96)は80歳になる直前、脊柱管狭窄症で歩行が困難になったが、手術を決断。手術は成功して再び歩けるようになり、自立した二人暮らしが続いた。
しかしそれから10年、要さんが90歳になったころ、異常行動が頻発するようになった。とうとう浴室で転倒して入院してしまう。原因は睡眠導入剤の多用によるものだった。東京から中澤さんが駆けつけたことで安心した母富代さん(仮名・90)も寝込んでしまった。
ようやく起き上がれるようになった富代さんと、これからの両親の生活について話した中澤さんは、「なぜこれまで気がつかなかったんだろう」と自分を責めることになった。
(「親の終の棲家をどう選ぶ? 一人娘で独身。アラフィフ女性の超遠距離介護」から続きます)
■エレベーターのないマンションが陸の孤島になる
「実家は築40年くらいの古いマンションでした。しかも、4階建ての低層マンションだったので、エレベーターがなかったんです。実家はその3階。父は『ここで死ぬ』と常々言っていましたが、母は『ここでずっと暮らしていくのは不安』だと言っていました。その言葉で私が母のSOSを感じ取るべきだったんです」
要さんは、脊柱管狭窄症の手術後、回復とともに自由に外出できる生活に戻っていたのだが、睡眠導入剤の飲みすぎで次第に行動がおかしくなり、80代後半になるとほとんど外に出なくなっていたのだという。
「父は頑固な九州男児だったので、不安を感じても私には何も言いませんでした。母が一人で受け止めていたんです」
その母、富代さんも80代半ばにさしかかり、エレベーターのないマンション生活に不安を抱いていたことがわかった。
自宅のある3階までの階段が辛くなり、特に買い物をして荷物が重くなると、2回に分けて3階まで運んでいたのだ。
「せっかく安売りをしているんだからと、12ロール入りのトイレットペーパーとか、5キロのお米とかを買ってしまい、重くて一度に階段を上れなくなくなっていたようです。それに私が帰っているときは、私が荷物を持つので、母の辛さにまったく気がつかなかったんです。なんてバカだったんだろうと思いました」
中澤さんは改めて親の老いを認識した。そして、ちゃんと親と向き合おうと決心したのだ。
「このままじゃダメだと痛感したんです。これまで私は父の味方をしてきました。父の『この家で死にたい』というプライドを尊重したかったんです。私には母の現状が見えていなかった。階段が上れなくなると、3階の家は陸の孤島になるでしょう。それに階段が使えたとしても、歩いて5分ほどの近くのスーパーまで、行きはゆるやかな下りですが、帰りは上り。胃がほとんど残っていなくて、体重が35キロを切るほどの母にとっては、それくらいの坂でさえ大変になっていたんです」
■SOSのサインを出していた母
「3か月に1回帰るくらいじゃ、間に合わない」――
中澤さんは、両親の老いの現状がはっきりとわかった。両親が立て続けに倒れて、このままでは「親も死ぬんだ」という実感が迫ってきたのだ。
「母は頭もしっかりしていましたし、母自身の苦しさがまったくわかっていなかったんです」
親は、自分の老いや辛さをはっきり言わないことがある。子どもに心配をかけたくないという気持ちもあるのだろう。でも、“サイン”は発している。それが中澤さんの場合、富代さんの「不安だ」という言葉だった。
そういえばこんなこともあった、と中澤さんは振りかえる。
「最近、母は逆流性食道炎のため、可動式ベッドで上半身を少し上げて寝るようになったんですが、『ずる』と言うんです。それだけでは何のことかわからなかったんですが、よくよく聞いてみると、背を上げて寝ると小柄な母は下にずり落ちてしまうということだったんです。それで低反発マットを使ってみると、改善できました。逆に体重の重い父には低反発マットは沈み込んで合わなかったんですが、小柄な母には適していた。『ずる』という言葉がそのサインだったんです。些細な言葉を聞き逃さず、それが何を意味しているのか感じ取ることが大事だったんだと改めて思いました」
富代さんは“職業婦人”から専業主婦になったとはいえ、一人娘には好きな仕事に専念してほしいという思いが強かった。要さんが倒れるまでは、娘の力がなくても富代さんだけで問題を解決できていた。老いとともに、自分一人ではどうにもならなくなっていたのだった。
【後編に続きます】
取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。