文/砂原浩太朗(小説家)
楠木正成(くすのき・まさしげ。?~1336)のイメージは、劇的な移りかわりを経ている。戦前は「忠君愛国」の権化とみなされ、「大楠公(だいなんこう)」とたたえられた。が、その後はむしろライバルだった足利尊氏(1305~58)の陰にかくれたような印象がある。また、近年は歴史学でいう「悪党」(後述)と称せられることも増えてきた。はたして、彼の素顔はいかなるものだったのだろうか。
楠木家は関東出身の御家人?
歴史上、正成について分かっていることは多くない。その素性も、河内国赤坂(大阪府千早赤阪村)に住まう武士という以上のことは明らかになっていないのだ。地侍(土着の武士)のようなイメージが一般的だと思うが、筆者はむしろ御家人(鎌倉幕府の将軍と主従関係をむすんだ武士)説のほうに信憑性を感じている。以下、根拠をあげてみよう。
武士の姓は出身地をあらわす場合が多いが、楠木という地名は河内周辺になく、駿河(静岡県)に見いだせる。また、のちに鎌倉幕府の初代将軍となる源頼朝が上洛したとき、供のなかに楠木四郎という者がいた(名前以外の詳細は不明)。最後に、正成の活躍から40年ほどまえ、楠木河内入道という人物が記録に名をとどめている。
いずれも傍証でしかないが、すくなくとも、最後の「楠木河内入道」は、地理的なつながりからいって正成の親族と考えていい。世代的には祖父といったところだろうか。
また、正成自身、天皇方となるまえは、幕府の命をうけ、畿内を中心とする各地へ兵を出している。これらを合わせると、関東出身の御家人か得宗被官(執権・北条氏の家臣)で、何代か前に河内へ所領をあたえられ移り住んだという可能性が考えられるだろう。この見解があまり主張されてこなかったのは、天皇の忠臣・正成がもと幕府方だったとするのをためらう気もちが戦前の学会などにあったからかもしれない。
ちなみに、かつては「楠正成」と書かれることも多かったが、現在は「楠木」が正しいという説でほぼ定着している。
後醍醐天皇のもとで
後醍醐天皇(1288~1339)はみずから政治の権をにぎらんという思いがつよく、即位(1318)の直後から鎌倉幕府打倒をめざしていた。一度目(1324)は計画がもれて失敗におわったが、あきらめることなく二度目の討幕をくわだてる。が、元弘元(1331)年8月、これも幕府の知るところとなり、天皇は都を脱出、笠置山(京都府笠置町)へ立て籠った。正成が歴史の表舞台へ登場したのは、このときである。天皇に味方し、反幕府の兵を挙げたのだ。
どのような経緯で、彼が天皇方となったのかは不明である。軍記物語である「太平記」の作者もその点に苦慮したとみえ、後醍醐が霊夢を見て正成の存在を知り、使いを送ったというくだりを創作している。おそらく、笠置山に籠った後醍醐が各地の武士に決起をうながし、応じた者のなかに正成がいたということだろう。少なくとも、河内で暮らすようになって何代かを経ていたろうから、東国の幕府よりも京にいる天皇のほうを身近に感じていたのかもしれない。
正成は「悪党」だったか?
正成の挙兵は後醍醐が笠置山へ籠った翌月である。じつは、これに先だち、彼は現在の大阪府堺市にあった寺領を襲い、年貢を収奪している。この行為が、のちに正成を「悪党」とする根拠となった。
ご存じの読者も多いだろうが、歴史用語としての「悪党」は、単にわるいやつらという意味ではない。おもに荘園(貴族・寺社の私有地)など既存の権威を犯す者に冠せられた呼称で、近年、楠木正成をその一人とする見方が広まっているのだ。これはこれで魅力的な響きを帯びた説だから、支持したくなる気もちもよく分かる。
が、正成がおかした悪党的行為はこの一例のみであり、しかも、後醍醐の意をうけ討幕の軍資にするためという見方が根強い。正成を「悪党」と断ずるには、やや根拠が薄いというのが公平なところだろう。
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