取材・文/鳥海美奈子
ワイン造りはレヴィ=ストロースの構造主義と同じ
ワインを真に識ることは、世界の一端をつかむに等しいと、そういえるのではないか。ワインとは植物学や微生物学、土壌学や気象学、さらには醸造学など多くの要素を内包している。
紀元前にワイン造りが始まったヨーロッパでは、それに加えて宗教や歴史、政治や文化も関わってくる。恐ろしく、深淵なる世界。そう考えれば、ワイン生産者が知的であることは、むしろ必要不可欠にすら思えてくる。
山形県南陽市赤湯に位置する酒井ワイナリー。その5代目当主・酒井一平さんからレヴィ=ストロースの名を聞いたとき、思わず目を瞠った。フランスの文化人類学者レヴィ=ストロースは、20世紀を代表する思想家のひとりである。
「ある勉強会でテロワールとはなにかを学んだことがあったんです。そのときに、あ、ワイン造りはレヴィ=ストロースの構造主義と同じだと気づいたんですよ」
日本でレヴィ=ストロースについて語る人は一部の知識層や読書家だけに限られているから、その名がワイン生産者の口から発せられたことに、驚いたのだ。
「本をよく読むようになったのは、大学を卒業してからです。ぶどう栽培家として、ワイン醸造家としてどうあるべきか、ワイナリーやぶどう産地の継承者としてどのように次世代にバトンを渡すべきか。そういったことを考えるようになってから、本のなかに答えを求めるようになりました。おもに手に取るのは自然科学や哲学、文化人類学関係の本です」
構造主義とは自然、また文化や社会にも共通の構造が存在するという考え方である。
「植物や動物、さらにはワイン造りも、すべてのなかに似た構造がある、ということです。たとえば牛や羊など反芻動物の消化方法は、赤ワインの発酵と共通している部分があると感じます。なかでも皮や種、ぶどう果汁を全部入れてかき混ぜて、空気を含ませるルモンタージュという醸造法がよく似ていますね」
反芻動物は、4つの胃を持つ。口にした食べ物はまず第1胃で撹拌され、微生物がそれを分解し、再び口へと戻される。それを噛むと次に第2の胃へ送られ、再び発酵分解が行われる。これを繰り返していく。
一方、ルモンタージュとはワインが発酵しているときに、発酵槽の下からワインを抜き、ポンプでワインを汲み上げ、それを発酵槽の上から再びかける方法だ。上部に浮いている果皮や種をワイン果汁と混ぜることで、発酵を促す。それを何度か繰り返す。
「人間は時代や思考により、醸造法を変化させてきました。私はいま畑で羊を飼っていますが、羊は昔から変わらないやり方で生き続けています。その様子を観察していると、意識を持つ人間より、無意識の動物のほうがより洗練されているし、より進んでいると気づく。だからワイン造りもいかに自然を模倣するか、自然にならうかを模索し続けてきました」
その羊を放牧するぶどう畑は、米沢盆地を囲むようにそびえる名子山の鳥上坂地区にある。普通に立つことさえ困難な30度の急斜面の畑には、人の腰ほどまで下草が生い茂る。
畑に入るときは転ばないよう気をつけながら、その下草をバキバキとかきわけつつ、行く。野生的、という言葉がこれほどあてはまる畑もない。
化学合成農薬や除草剤、化学肥料を用いない代わりに羊を放牧し、草を食べてもらう
その急斜面のぶどう畑では、草刈り機などの機械を使うことはできない。一平さんは化学合成農薬や除草剤、化学肥料をいっさい用いない代わりに羊を放牧し、草を食べてもらっているのである。現在、羊は10頭いる。
「以前は羊を購入していたけれど、去年2頭、今年は4頭の仔羊が産まれて自給できるようになりました。羊は好きなときに畑に来て、好きなときに草を食べるという自然に近い状態で暮らしています。食べる植物と食べない植物があって、それにより植生も変わる。でも、それも自然でいいと考えています。羊の糞尿は良質な堆肥になるので、羊を飼ったことにより循環型農業が実現できました」
外部からなにか物を入れるのではなく、この地にあるもののみで完結し、ぶどうを育てること。その完全な円を形成するための最後のピースが、羊だったと語る。
「これも、100年前の農家のやり方を再現しているに過ぎないんです。でも今は、そのやり方を真似することがとても難しくなっています。たとえば昔は、ものを運搬するために馬を飼い、その糞をたい肥にしていた。最終的には、牛や馬も飼いたいと思っています。さまざまな動物が棲み、違う糞の種類が畑に入り、それが循環することで、ぶどうも病害などにより強くなると考えているので」
とはいえ当初、下草を伸ばすにまかせているように見えるこの畑に、一部のワイン専門家たちが疑問や心配を抱いていたのもまた事実だった。この野性的な畑のありようの奥に、これほどの思考や思慮の軌跡が刻まれていることに、ほとんどの人は気づかなかった。
ぶどう畑に数種の木々を植えて、畑のなかで共存させる
この鳥上坂は2006~2007年にかけて、一平さんがぶどうを植樹した畑である。メルロ、カベルネ・ソーヴィニヨン、シラー、プチ・ヴェルドーが混植されている。
自然の観点から見れば、たとえば1haのなかにひとつの種しかないということはあり得ない。だから一平さんは、複数のぶどう品種を一緒に植えるのだ。
一般的には、植樹して3年目からぶどうを収穫し、ワインを造り始めるが、この厳しい環境下で育ったぶどうは成長が遅く、ようやく実を収穫できたのは5年目のことだった。
しかし、それにより生まれたワインが、なにより雄弁にこのやり方が間違いではないことを物語っていた。深みのあるカカオや土、赤や黒系果物の様々なニュアンスがあり、スムーズな飲み口である。
ぶどうは他の植物と「健全な競争」(一平さん)をするため自然、収穫量も少なくなる。しかし、そのぶん味わいの凝縮度が増すのだ。
畑に生殖するのはぶどうだけではない。桐、桑、栗、どんぐり、ニワウルシ、ニワアカシア、ニガキ、イヌザンショウ、ブルーベリーなども畑のなかに植えられている。
ぶどう畑に数種の木々を生産者自ら植えて、畑のなかで共存させる生物多様性の手法はいま、他国のワイン生産者のあいだでも非常に注目されている。
たとえばフランスならラングドッグやジュラ、ロワールなどの生産者たちのなかに取り組んでいる人がいる。
それを2007年から試み始めた一平さんは、世界のワイン生産者の最先端を走っていたとも言えるだろう。
「醸造は動物を模倣しますが、ぶどう栽培では森を模倣しています。多くの生き物が共存している環境は強いと考えるからです。ジャンゼン・コンネル仮説というのがあるんですよ。森林ではなぜ樹種の多様性が保たれるのか、それを説いたものです。成木の近くは、その実を食べる動物や天敵となる病原菌が多く存在するので、同じ種類の木は繁殖しづらい。同種の増加が妨げられることにより、他の種類の木々が生育する余地が生まれる。森林生態系は、そうやって多様性が保たれているのです。それに植物は、根と根のあいだで化学物質を出して情報を交換しているそうです。この畑のすぐ近くには山もあるし、その要素も畑に取り入れていければと思っています」
一平さんは、ここを「ぶどう畑」ではなく単に「畑」と呼ぶ。その理由を、「いろんな収穫物が獲れるところだから」とそう語る。
土壌の微生物や昆虫、多くの植物や動物が共生するこの環境のなかでは、そこに生きる羊もまた特別な存在ではない。ゆえに、一平さんはその羊を食べるのが当然だと考えている。
毎年、ワイナリーのイベントの際には、酒井ワイナリーのワインが振舞われるとともに1頭の羊が供される。
「羊は、肉を食べることを前提に飼いました。かわいそうと擬人化したり、感情移入して“食べるな”というのはむしろ無責任な発言だと思っています。田舎でも、“殺して食べる”というと、えっと驚く人が多いんですよ。飼っているあいだは喜怒哀楽とともに羊と懸命に向き合い、そしてできれば自分の手で屠畜したい。きちんと自分で殺したいんです。それが責任を持つということだとも思うので。でも法律上許されないから肉屋に依頼して屠畜、解体してもらっています」
ワインの世界でよく使われる「テロワール」の本当の意味
例えば、野生のオオカミやジャッカルが飼いならされて家犬になったのは3万年前頃と推測されている。その犬の家畜化は、本来は食用のためだったという説が有力だ。事実、犬を食べる人々は現在も世界に実在している。
家畜か、家族という共同体のなかに愛玩される対象としているペットか。それが、食用か否かの分岐点になる。
一平さんは、この畑のなかに存在する、人間である自分自身についても、考察を重ねる。
「動植物を含めた畑の自然のなかに人間も含まれます。生態系に決定的な影響を与える生物種をキーストーン種、あるいは中枢種といいますが、それが人間です。私たち人間は、自然の生態系の三角形のピラミッドの一番上にいる。だから自然を語るときに人間を外すことはできません。人間をも自然の一要素にするという、それがヨーロッパ人が到達したテロワールという考え方なのだと思います」
ワインの世界でよく使われる言葉「テロワール」は、「土地」を意味するフランス語から派生した言葉だ。その地の気候や地理、地勢や土壌、風土が、ぶどうに影響を与える。日本では単にその自然的要素だけを「テロワール」だと捉えがちだが、そこにぶどう栽培をする人間も内包されるというのがフランスを含めたヨーロッパの世界観だ。
取材のあいだ通底して感じたのは、まぎれもない読書家としての一面だった。では本とは、一平さんにとってどのような存在なのか。
「本は人と人、人と自然を繋ぐ鍵や門のようなものだと思います。私にとって本から得られたことはとても大きい。本によって英知に触れ、畑のなかで得た直感が、科学的に裏づけされていることだと知る。直感が明確な言葉となり、確信へと変わるのが、読書の一番うれしい瞬間です。それで読み進めていくとまたわからないことが出てきて、別の分野の本にあたると、新たな門の扉を開く鍵が見つかる。そんな快感があります」
数年前までは、時間さえあれば本を手にした。だが読書の結果、自分なりの自然への理解と解釈が完成しつつあるいまは、それを実践するために畑へと行く。そう、いまは思索や理論のときではない。行動のときなのだ。
【その2に続きます】
取材・文/鳥海美奈子
2004年からフランス・