取材・文/鳥海美奈子
【その1はこちらです】
酒井一平さんは、今年40歳になった。酒井ワイナリーを創業した16代目の当主・酒井弥惣さんは、明治時代に16年間にわたり赤湯町長を務めた人物。酒井家は、地元の名士である。
「どちらかというと、人間にはあまり興味のない子供でした。誕生日になにが欲しいかと聞かれて、プランターで野菜を育てるセットがいいと言ったり。人よりも動植物に感情移入する性質で、子供の頃は獣医になりたかったですね。ただ幼いときから”長男だ”と洗脳されて育ったので、自然にワイン造りの道を選びました。父や叔父たちもみな優秀で、あとを継ぐために東京農業大学醸造学科に行こうというモチベーションだけで勉強していた。自分はこの仕事とうまがあったから、幸せでした。でも、ワイナリーでなくても稲作、酪農や牧畜でもよかったと思います」
酒井ワイナリーが位置する山形のぶどう栽培発祥の地、赤湯
酒井ワイナリーが位置する赤湯は、山形のぶどう栽培発祥の地とされる。ぶどうが植栽されたのは江戸初期。この一帯には金鉱山があり、金の採掘により栄えた。
そのため現在の山梨県にあたる甲州から、鉱夫が甲州種のぶどうを持ち込んだともいわれる。「金山」「金沢」といった地名などに、いまなお金鉱で栄えた名残がうかがえる。
その甲州種を使ってのワイン造りが始まったのは、明治時代のこと。米沢藩の藩校で英語を教えていたイギリス人の貿易商チャールズ・ヘンリー・ダラスがワインを飲みたいと所望したことから、1892(明治25)年、弥惣さんがワイナリーを創業した。これが東北最初のワイナリーである。
米沢盆地には白竜湖があり、湿地帯の平野部では稲作が盛んだったことから急斜面の鳥上坂にぶどう畑を切り拓いたのだ。
「醸造にあたっては、帝国大学農科大学の古在由直教授に教えを受けたそうです。当初は辛口のワインを造ったけれど、その頃の人々は辛口ワインの価値がわからず、受け入れられなかった。そのため甘口ワインに挑戦したと聞いています」
現在、山形を代表するぶどう品種のひとつであるアメリカ原産のデラウェアも、やはり明治時代にこの地に入った。
「外国のぶどう品種になじみがなかったので、当時の人はぶどうを交雑番号や愛称で呼んでいました。デラウェアは”小姫”です。人々がこのぶどう品種を大切にし、愛したことがこの名前から伺えます。うちのワイナリーではデラウェアから造ったワインを“小姫”という銘柄名で販売していますが、それは当時の名残を大切にしたいと考えるからです」
創業以来、酒井ワイナリーはつねに家族経営を行ってきた。とはいえ、東京農業大学醸造学科を卒業した一平さんが戻った2004年当時の自社畑は、鳥上坂の40aのみ。しかし急斜面で重労働なことから、耕作放棄地になっていた。
そこにぶどうを植え、やがて高齢化で契約農家が亡くなったり、手放した畑を買い足して、現在は7.5haまで広がっている。
一平さんがワイナリーで働き始めた当初は、ヨーロッパ的なぶどう栽培を模倣したこともあった。しかし近年は、ワイン造りの伝統国に倣う必要はないと考えるようになった。
「ヨーロッパ的な垣根栽培を10年やってきましたが、昔から日本で行われてきた棚栽培のほうがあっているかもしれないと思うようになりました。ずっと私と一緒に働いた叔父が最近、亡くなったんです。その叔父は、ここでは垣根栽培はだめと言い続けていた。いまも模索中ですが、新しく植えたぶどうに垣根栽培のものはありません」
棚栽培の参考にするのは、19世紀の大英帝国時代の作家イザベラ・バードの紀行文
棚栽培の参考となるのが、19世紀の大英帝国時代の作家イザベラ・バードが日本各地を旅して、したためた紀行文だという。
「船に乗り、川からこの地域のぶどう畑を見た記述もあります。それを読んだり、昔の話を聞いたりすると、棚づくりの原型は自然の木を利用したものだったようです。自然の木と木のあいだに棒を渡して、そこにぶどうをはわせていた、と」
確かに、ワイヤーも針もない時代は、現在のように人間が棚を作ることはできなかったに違いない。
「この辺りは冬は1.5mも雪が積もるので、傾斜の強い畑だと雪崩になる可能性もあるし、人間が作った棚は支柱が折れる可能性もある。でも自然の木は根がしっかり張っているので、たとえ雪で一度押されて曲がっても、自己修復できるんです。ぶどうの樹1本に、支えとなる木が1本あるのが理想的だと考えています。いかにぶどうが”幸せだ”と感じる環境をつくれるか。それが課題です」
ぶどうに与える水分量についても、考察が続く。フランスなどのヨーロッパでは、ぶどうの樹が水分を吸うと果実の房が大きくなり、水っぽくなると敬遠される。しかし、日本の山形の赤湯では違うのではと一平さんは考える。
「鳥上坂の畑の脇には沢があって、そこから湧水が出ます。積もった雪が溶け、その雪解け水が12度という安定的な温度を保ちつつ、年間を通じて地下水として流れている。山形は冬は寒いけれど、夏はとても暑いんです。冷たい水を吸うことにより、夏は樹が冷やされる。夏の暑さを逃してくれる水は、地域の資源だと思っています。やみくもに水を敵視するのは間違っているのではないか、と」
日本ならではの豊かな水資源を、どう生かすか。それが赤湯のテロワールや個性へと繋がる。ただし、ここは畑が岩山に切り拓かれているので水はけがよく、他の植物も共存するので、競争のなかで水分量も自然に調節されるという好条件がある。
醸造もまた、日本的な美質をなるべく生かしたいと、そう考える。明治初期に造られた土蔵は、酒井ワイナリーの歴史の証人ともいえる建築物のひとつ。そこを現在も、醸造所として利用している。
「土蔵の土壁は、湿度が60~70%くらいです。ヨーロッパのカーヴは、湿度が90%に達するところもあります。ワインを熟成させる樽は、以前は225Lや228Lのサイズが多かったのですが、現在は赤白ともにより大きい500L を増やしつつある。湿度が低いと、ワインに樽のニュアンスがよりつきすいから、ワインと接する面が少ない大きな樽のほうが向いているんです」
産地や樽の材質はさまざまで、なかにはアカシアの木を使ったものもある。
そして酒井ワイナリーの大きな特徴ともいえるのが、日本酒の一升瓶を使っての濾過だろう。ワインの発酵後にこの一升瓶に詰めて、自然に澱が下がるのを待つ。濾過器を使わない手法を考えたすえのひとつのやり方だ。
「一升瓶は、タンクで貯蔵するのに比べて底面積が大きくなるので、ワインと澱が接触する比率も高くなります。さらに澱と長期間、置くことでワインに複雑味や旨みも加わる。これも自然酵母だからこその面白さです。この地域に住んでいる微生物や野生酵母のみで発酵し、今後は亜硫酸無添加も増やしていきたいと思っています」
「赤湯のワイン」とはなにかというアイデンティティを確立するために
畑の構成要素も、それにより実ったぶどうも、そのぶどうを発酵してワインになる際に必要な酵母や微生物も、すべてこの赤湯という地で育まれたものであること。それが「赤湯のワイン」を謳うためには不可欠なのだ。
「ワインが世界で造られるのは、その土地の個性によって違うものができる点が魅力だからでしょう。そうであるなら、世界のなかで日本の、しかも赤湯のワインとはなにかというアイデンティティを確立しなければいけないと思います。哲学の世界に、“テセウスの船”というのがあるんですよ。船の古い部品をひとつひとつ入れ替えていって、すべて交換し終わったときに、それは元の船と同じといえるのか、実体が違っても価値は同じなのか、ひいては同一性=アイデンティティとは何か、を問うたものです。ぶどう畑という自然も、その産物であるワインも、少しずつ長い時間をかけて要素が変わっていく。しかもワインは年ごとに味わいが違うにもかかわらず、同じ酒井ワイナリーのワインだと認識できるのはなぜなのか。4次元とは、時間と空間を組み合わせた概念ですが、私たちは3次元に生きて、1年間という時間を輪切りにして毎年ワインをつくる。長年ワインを造ることによりその輪切りにしたものが連なり、4次元の世界が構築されていって、それが歴史、ひいてはワイン産地のアイデンティティになるのでは、と思っています」
一平さんには、3歳の男の子がいる。いつも理路整然と、思慮深くワイン造りについて語るその横顔が、息子さんについて話すときだけは、少し緩んだのが印象的だった。
「いま、赤湯は農家の高齢化により人手が足りなくて、ぶどう産地として過渡期にあります。今後、新規のワイナリーが増えて、ぶどう産地として復活し、それが未来にわたり定着すること。そういった胸を張れる産地、誇れる文化を作り上げて、農地を次世代に渡すのが大きな目標です。よく文化になるまでには3代必要だと言われますが、自分の孫の代には、それが実現できていれば、と。個人のワイン造りはもちろん、ワイン産地そのものを守ろうとすると終わりが見えない。そのためには、たとえ周囲から多少奇抜だと思われたとしても、自分が考え抜いた結果、たどり着いた挑戦を続けたいと思います」
酒井家は地元の名士であり続けてきた。自身のワイン造りの未来と、赤湯という産地の未来と。両者をその掌にしかと握りしめて、一平さんの道程は続く。
取材・文/鳥海美奈子
2004年からフランス・