【サライ・インタビュー】

田沼武能さん
(たぬま・たけよし、写真家)

――写真家として70年、黒柳徹子ユニセフ親善大使の訪問に同行して35年――

「写真家にゴールはない。命ある限り、世界の子供たちの写真を撮り続けたい」

仕事場の棚には、師・木村伊兵衛の作品が山積み。「代表を務める写真保存センターで、著名な写真家の仕事を語り継いでいくシステムをつくることも私の重要な仕事です」

仕事場の棚には、師・木村伊兵衛の作品が山積み。「代表を務める写真保存センターで、著名な写真家の仕事を語り継いでいくシステムをつくることも私の重要な仕事です」

※この記事は『サライ』本誌2019年7月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)

──レバノンから帰国されたばかりです。

「ユニセフ(国連児童基金)親善大使として活動されている黒柳徹子さんに同行し、子供たちの写真を撮ってきました。シリアやパレスチナから戦火を逃れてきた子供たちが、元気よく遊んでいる姿が印象的でした。徹子さんとは古くからの知り合いで、35年ほど前に彼女がユニセフ親善大使に就任すると聞き、“費用は自分で出すからぜひ僕も一緒に行かせてほしい”と申し出たんです。“恵まれない環境の子供たちのために何かしたい”という気持ちは彼女と同じですからね。昭和59年のタンザニアからずっと同行しています」

ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんに同行し、今年5月に中東のレバノンを訪問。写真はシリアから逃れてきた難民の居住区で、子供たちに囲まれ思わず笑顔になる黒柳さん(※『黒柳徹子のレバノン報告』(仮)95 がテレビ朝日(関東地区のみ)で6月30日(日)午前10時~10時55分に放送予定。)。

ユニセフ親善大使の黒柳徹子さんに同行し、今年5月に中東のレバノンを訪問。写真はシリアから逃れてきた難民の居住区で、子供たちに囲まれ思わず笑顔になる黒柳さん。

レバノンでは黒柳徹子さんと首都ベイルートにあるパレスチナ難民居住区の教育施設も訪問。遊びを通して子供たちの悩みや希望を聞く黒柳さんにレンズを向ける。

レバノンでは黒柳徹子さんと首都ベイルートにあるパレスチナ難民居住区の教育施設も訪問。遊びを通して子供たちの悩みや希望を聞く黒柳さんにレンズを向ける。

──ご自身はどんな子供時代でしたか。

「僕は昭和4年に、東京の浅草で写真館の息子として生まれました。6人兄弟の次男坊で、学校から帰るとランドセルを放り出し、仲間とベーゴマやメンコとビー玉で遊ぶ、典型的な下町の子供でした。将来、写真を仕事にしようなんて思ってもいなかった。最初は近所にいた仏師に憧れ木彫をやりたいと思ったんですが、父に反対されまして。それで早稲田大学の建築科へ進んで建築家になろうと思い早稲田第一高等学院を受験しましたが、軍事教練で中学校に来ていた教官に反抗していたことが“素行不良”と内申書に書かれていたらしく、一次選考ではねられてしまいました」

──東京大空襲にも遭いました。

「昭和20年3月9日の夜中でした。空襲警報のサイレンが鳴り、焼夷弾が落ちてきて、瞬く間にあたりが火の海となりました。停電で真っ暗だった家の中が、炎で真昼のように明るく照らし出された。とてもじゃないが、バケツの水で消火なんてできない。家に残っていたのは父と僕だけで、自転車にふたり乗りをして逃げました。そこら中が真っ赤に燃えていましたね。なんとか逃げのび、隅田川の川岸の空き地で一夜を明かしました。

翌朝、自宅へ戻る途中は、見渡す限り焼け野原でした。川にも、道にも累々と死体が横たわり、自宅も灰燼に帰していた。そして家の前にあった防火用水桶の中に、黒焦げになった子供の焼死体が、まるでお地蔵様のように立っていました。焼け死んでいく母親が、せめてわが子だけは助けたいと桶の水の中に投げ込んだのでしょうか。ひと晩で10万人の死者が出ました。人間の起こし得る最大の愚行が戦争ですよ」

──終戦後は写真学校へ進んでいます。

「建築家を目指し再度、早稲田第一高等学院を受験したのですが、またもや一次選考ではねられてしまいまして。民主主義の世の中になっても、戦時中の内申書の評価は変わることがないと気づかされましたね(笑)。それで仕方なく進学したのが、東京写真工業専門学校(現・東京工芸大学)でした」

──どんな学生生活を送ったのでしょう。

「1年目は進駐軍のクラブでウェイターをしたり、極東軍事裁判の裁判資料を複写するアルバイトに明け暮れていました。学校の勉強のほうは、門前の小僧で家の手伝いをしていたのである程度の技術がわかっていたから却って身が入らない。でも、そんな毎日を送っているうちに“これでいいのか”“このままでは人間が駄目になってしまう”という気持ちが湧き上がってきましてね。生家の田沼写真館では、昔からアメリカで発行されている世界的なグラフ誌『ライフ』を定期購読していました。どうせ写真をやるなら、『ライフ』のようなグラフ・ジャーナリズムの世界に入りたいと思い、学校の仲間たちと報道写真部をつくると、新聞社のカメラマンたちに交じってメーデーの様子を撮影したりしました」

──卒業後の進路は。

「その年は各新聞社でカメラマンの公募がなく、NHKの写真部の受験にも失敗。そこへ、学校の先輩でもある兄の友人がサンニュースフォトスで人を探していると教えてくれ、面接を受けるとすぐに採用されました。

この会社では、伝説的な写真家の名取洋之助さんが編集主幹となり『週刊サンニュース』を発行していたんですが、僕が入社する直前に『週刊サンニュース』は休刊が決定。名取さんは岩波書店へ移ってしまった。僕はサンニュースフォトスに入社すると暗室の仕事から始め、しばらくしてグラフ写真の撮影の依頼を受ける部署へ異動になりました」

──人生最大の出会いがそこにあった。

「会社の顧問格に斯界の巨匠・木村伊兵衛がいて、押しかけ弟子となったのです。初めは“助手はいらねえ”と断られましたが、諦めずに懇願しつづけ、とうとう認めてもらいました。先生は、おもに東京の下町を歩いて人々の暮らしをスナップ撮影しました。木村伊兵衛の写真の撮り方は、ひとことでいえば居合抜きです。前から歩いてくる人を撮りたいとすると、シャッターを押すまでの被写体との間合いや露出、シャッタースピード、その人物がどこまで来たときに背景がどんなふうに写るのかまで、瞬間的に計算してしまうんです。そして、被写体がその場所に来たらパッと2~3枚撮ってそれで終わり。まさしく居合術です。一期一会の、二度とない瞬間が先生にとってすべてでした」

──木村伊兵衛にどんな指導を受けましたか。

「撮影の仕方などを、直接、具体的に教えてくれたことはありません。ついて歩きながらシャッター音に耳を澄まし、どんなふうにレンズを向けて写真を撮るのか目を凝らして見つづけました。やがて、先生が後ろを振り返ったとき、黙って必要なレンズを渡せるようになりました。そうやって木村伊兵衛の撮影を凝視するうちに、写真とは何か、写真家とは何かということを学んでいった気がします」

「教科書に出てくるような大先生方の話が、僕の人生の肥やしになりました」

4月14日まで東京・世田谷美術館で「田沼武能写真展 東京わが残像1948-1964」が催されていた。東京の下町や武蔵野の風景も、田沼さんが撮り続けてきたテーマだ

4月14日まで東京・世田谷美術館で「田沼武能写真展 東京わが残像1948-1964」が催されていた。東京の下町や武蔵野の風景も、田沼さんが撮り続けてきたテーマだ

─順調な会社員生活を送っていた。

「サンニュースフォトスは不思議な会社でしてね、月給をまともに払えないから、社員にアルバイトを奨励していた。僕も会社の仕事と木村先生の助手をやりながら、夜は他社の暗室作業の手伝いや、写真館で記念写真のプリントをしました。ブロマイド屋さんに頼まれ、松竹歌劇団の舞台稽古の撮影もしました」

──アルバイトをしながら写真を学んだ。

「昭和25年、新潮社から『芸術新潮』が創刊され、木村先生の推薦で、小回りのきく若手写真家ということで僕が写真を任されました。サンニュースフォトスの社員のまま、新潮社の嘱託となったのです。この仕事を通して、横山大観、川端康成、小林秀雄、柳田国男、中谷宇吉郎といった教科書に出てくるような大先生たちと接することができました。こっちはまだ20代前半で、先生たちの孫のような年齢でしたから、長老たちが心を開いてくれたところもあったのでしょう。裃(かみしも)を脱いで、いろんな話を聞かせてくれました。これが、僕の人生の肥やしになったと思います。

その後、フリーになりましたが、若くて使い勝手がいいからか、ある種の売れっ子になりまして。頼まれるままにいろんな会社のいろんな仕事をして、寝る間もないほど働きました。写真が好きでしたから、辛いと思ったことは一度もなかったですけどね」

昭和39年、東京オリンピックを取材する35歳のころ。このときタイム・ライフ社の仕事を手伝い、のちに『ライフ』と契約する。

昭和39年、東京オリンピックを取材する35歳のころ。このときタイム・ライフ社の仕事を手伝い、のちに『ライフ』と契約する。

──やがて、舞台を世界へ広げます。

「昭和41年、37歳のときに『ライフ』の発行元であるタイム・ライフ社が“うちで仕事をしないか”と声をかけてくれたんです」

「子供は社会を映し出す鏡です。その国の環境も時代も伝えられる」

──憧れの雑誌から声がかかった。

「『ライフ』から仕事をしないかと声をかけられるなんて夢のような気分でしたが、このとき僕はインドシナ半島には行かないという約束を交わしました。ベトナム戦争が激しくなり、ベトナムへ行って戦争を報道したいという写真家は大勢いました。でも、僕は東京大空襲の惨劇を体験しましたし、戦争に関わるのは御免でした。“自分の写真を撮りたい”という強い思いもありました」

──独自のテーマを追い求めていた。

「じつは寝る間もなく飛び回っていたころ、師匠の木村伊兵衛からこんなふうに言われたんです。“いつまでもそんなことをしていたら、マスコミに潰されてしまうぞ。お前は頼まれ仕事をこなしているだけで、自分の作品がないじゃないか。チューインガムと同じで、味がなくなればポイと捨てられるだけだ”

仕事の忙しさを、写真家としての自分への評価と勘違いしていたんですね。ライフワークを見つけなければと模索していたとき、『ライフ』と契約する話がきた。私はニューヨークのタイム・ライフ社で契約と研修を終え、休暇で訪れたパリのブローニュの森で、夢中になって遊ぶ子供たちの姿に魅せられ写真を撮りました。そして、ある考えが浮かんだんです。そうだ、世界の子供たちをテーマに写真を撮ったらどうだろう。いま、この世界で生きている子供たちの写真を通して、子供たちがどんな生き方をし、世界の国々はどういう現状なのかを多くの人に伝えたい、と」

──テーマを見つけたわけですね。

「初めは、『ライフ』の取材の合間に子供たちの写真を撮れるのではないかと思いましたが、そんな甘い考えは通用しないとすぐに思い知らされました。『ライフ』は週刊誌です。取材を終えたらすぐにニューヨークの本社へ原稿を送らなくてはならない。子供の写真は、『ライフ』の仕事とは別に時間を割き、自分で費用を負担し本腰を入れて取り組みました」

──周りの反応はどうでしたか。

「そのころは“子供の写真なんてプロの写真家が撮るものじゃない”と、一段低く見る向きもありました。でも、僕は子供は社会を映し出す鏡だと思っています。子供を見れば、その国の環境もわかるし、時代を伝えることもできる。世間がどう言おうと、自分が信じた対象へ全精力で向かっていこう。そう思い、足かけ10年かけて撮り溜めた写真で昭和50年に『すばらしい子供たち』と題した個展を開き、写真集も刊行しました。反響は大きく、日本写真協会年度賞も受賞しました」

──ご自身のご家族とお子さんは。

「50歳でふた回り年下の女性と結婚し、男の子がふたりいます。芸能人でもないので特に発表もしないでいたら、週刊誌に“隠し妻子”と書かれたことがあります」(笑)

──90歳のいまも現役第一線。健康の秘訣は。

「仕事が、ちょうどいい運動になってるんでしょうね。何より、まだまだもっといい写真を撮りたいという意欲がある。それが元気の源でしょう。写真がもってる記録性という価値をもっと世の中の人に知ってもらい、残せる写真を撮れる若い人を育てていかねば、という気持ちも抱いています」

──人生の終焉は意識していますか。

「いつかは死ななきゃいけないんだろうな(笑)。写真保存センターの代表として、他人の写真の世話は焼いているけど、自分の撮影した写真も膨大にありますからね。死ぬまでにある程度ちゃんとしておいて、あとの人に迷惑をかけないようにしておきたい。そのために、いまはいろいろな展覧会をやりながら、少しずつ整理を進めているところです。

写真家にゴールはありません。伝えなければならない子供たちが世界にはまだたくさんいます。この命が続く限り、写真を撮り続けたい。それが僕の夢であり希望です」

子供のころに寺で書道を習い、のちに書家の指導も受ける。戦争の悲惨な体験から「地蔵尊」に見えた子供の姿が心の奥に住みついている。

子供のころに寺で書道を習い、のちに書家の指導も受ける。戦争の悲惨な体験から「地蔵尊」に見えた子供の姿が心の奥に住みついている。

田沼武能(たぬま・たけよし)昭和4年、東京・浅草生まれ。東京写真工業専門学校卒業。サンニュースフォトスに入社し木村伊兵衛に師事。『芸術新潮』等で文化人たちの肖像を数多く撮影。昭和41年から『ライフ』の契約写真家として世界各地で活躍する一方、ライフワークとして世界の子供たちの撮影を始める。昭和59年からは黒柳徹子ユニセフ親善大使の親善訪問に同行。写真集に『すばらしい子供たち』『武蔵野』『アンデス讃
歌』『文士の肖像』など多数。

●特別展「 昭和を見つめる目 田沼武能と土門拳」が土門拳記念館(電話:0234・31・0028/山形県酒田市)で7月15日(月・祝日)まで開催中。

※この記事は『サライ』本誌2019年5月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工

 

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