※この記事はサライ2006年8月号の特集「『万葉集』を旅する」より転載しました。写真やデータは掲載当時のものです。(取材・文/出井邦子 撮影/牧野貞之)
「万葉集を楽しむなら文献を離れ、万葉の風と光の現場に立ちましょう。そして万葉人が見たように山や川を、空や雲を眺めましょう」という中西進さんの案内で、飛鳥~吉野~阿騎野を巡った。
天皇が足繁く行幸した、古代信仰の地
吉野と『万葉集』の縁は深い。この地が桜の名所となるのは平安末期。万葉の昔は山深い仙境で、神が宿る聖地とされていた。
見れど飽かぬ 吉野の河の 常滑(とこなめ)の
絶ゆることなく また還り見む
柿本人麻呂(巻一・三七)
「山があり川がある風土で靄が立ちこめ、霞がかかりやすい。古代、そんな場所は仙人や神々の住む神々しい世界だったのでしょう」と、中西さんは推測する。古くは雄略天皇を始め、天武、持統、元正、聖武と歴代の天皇が幾度となく行幸したことからも、それが窺える。行幸の度に歌が詠まれ、『万葉集』には100首近い吉野の歌が収められている。
とりわけ持統天皇は、皇后時代も含め31回も吉野に行幸している。単なる避暑や舟遊びのためとは考えられない。
中西さんはいう。「夫の天武天皇が壬申の乱の前に吉野に隠棲するなど、個人的な縁もあるでしょうが、海や山の彼方に理想郷を求める道教の神仙思想に影響を受けたことも、持統天皇が吉野を愛した理由でしょう」
よき人の よしとよく見て よしと言ひし
吉野よく見よ よき人よく見つ
天武天皇(巻一・二七)
上の天武天皇の歌は、壬申の乱に勝利して治世が落ち着き、皇后(持統)や皇子らと吉野に出遊した時の喜びの歌である。
山中を縫って流れる大河
行幸の際に大宮人が宿ったのが、吉野離宮があったとされる宮滝である。滝とは急流のこと。現在、ここには喜佐谷(象谷)へ通じる吊り橋が架かり、橋から見る吉野川は、白い波頭をあげて迸る。
み吉野の 象山(きさやま)の際(ま)の 木末(こぬれ)には
ここだもさわく 鳥の声かも
山部赤人 (巻六・九二四)
「大きな川に恵まれない飛鳥人にとって、山中にこれほどの大河があることは驚きだったでしょう」と、中西さんは語る。