取材・文/藤田麻希
「日本画」という言葉が、明治時代以降に誕生したものであることをご存じでしょうか。つまり、江戸時代には日本画はありません。近代に入って西洋の画材・技法で描かれた「洋画」が隆盛し、それらと区別するために、日本古来の技法・様式で描かれた絵画を「日本画」と呼ぶようになりました。
そんな日本画の父と呼ばれるのが、狩野芳崖です。芳崖は、1828年に山口県下関で生まれ、江戸に出て、狩野派のなかで当時もっとも力をもっていた木挽町狩野家で絵を学び、御用絵師として江戸城の大広間に天井画も描きました。しかし、江戸時代の終焉とともに、400年以上続いた狩野派も終わりを迎えます。廃藩置県で雇い主である藩主が没落し、御用絵師は給料をもらえなくなってしまったのです。確固たる地位を築いていた芳崖とて例外ではなく、困窮を極め、輸出陶器の下絵を描いたり、新政府の地図を制作するなどして糊口をしのぎました。
そんな芳崖の人生を変えたのが、お雇い外国人のフェノロサです。当時、明治新政府は西洋の技術や知識の導入に力を入れており、写実的に描くことができる油絵の方がもてはやされていました。しかし、日本に来て日本美術の魅力に目覚めたフェノロサは、西洋美術一辺倒の状況に警鐘を鳴らし、日本美術を養護する主張を展開。講演などを行い、日本人を啓蒙していきました。フェノロサは、単に過去の伝統美術を復興するのではなく、西洋の遠近法や立体表現などを取り入れた、近代国家にふさわしい伝統美術の創出を目指します。フェノロサと出会った芳崖は、フェノロサ邸の近くに移り住み、その理念に基づいた日本画制作に打ち込みました。
「仁王捉鬼図」は、フェノロサが創設した鑑画会に出品し、一等になった作品です。画題自体は、江戸時代以前からあるものですが、注目すべきはその色です。色鮮やかな、金、橙、緑、ピンク、青などの色は、日本で主流だった天然の岩絵の具とは異なる、西洋顔料によるものです。仁王をとりまくオーラのような湯気や、邪鬼の服の濃淡のグラデーションなどにも研究の成果を見て取れます。
そんな狩野芳崖の名を冠した展覧会が、現在、東京・六本木にある泉屋博古館分館で開催されています。この展覧会では、10月10日の後期展示から、重要文化財の「悲母観音図」と「不動明王図」、「仁王捉鬼図」が史上初めて3点同時に並びます。また、芳崖と同世代、次世代の、これまであまり紹介される機会のなかった画家の作品も集まっています。
泉屋博古館分館長の野地耕一郎さんは次のように展覧会の詳細を説明します。
「この展覧会のキーワードは四天王です。1章、2章、3章にわけて、木挽町狩野家で芳崖の周辺にいた狩野派の四天王(芳崖、橋本雅邦、木村立獄、狩野勝玉)、芳崖の高弟の四天王(岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲、本多天城)、彼らと同級生にあたる東京美術学校の四天王(横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月)。これら3組の四天王を取り上げます。
この展示を通じて、明治時代、とくに明治10年代から40年代にかけて、日本画の革新がどのような方法で行われたか、目の当たりにしていただければと思います。また、日本の絵画史では、第3章で取り上げる横山大観や菱田春草などが、表立って語られてきたわけですが、その裏側にいた、第二章で扱う芳崖四天王がどのように活躍していたかも見ていただきたいです。芳崖が残したエッセンスが水脈となって、さまざまなところに伝えられたことをご確認ください」
江戸時代に隆盛を極めた狩野派と、近代以降に誕生し現代まで連綿と続く日本画が地続きに連なっていたこと、そして、日本画の新しさ。そのどちらもがよくわかる展覧会です。
【特別展 狩野芳崖と四天王 ―近代日本画、もうひとつの水脈―】
■会期:2018年9月15日(土)〜2018年10月28日(日)
前期:9月15日(土)〜10月8日(月・祝)
後期:10月10日(水)〜10月28日(日)
■会場:泉屋博古館分館
■住所:〒106-0032 東京都港区六本木1-5-1
■電話番号:03-5777-8600(ハロ-ダイヤル)
■公式サイト:https://www.sen-oku.or.jp/
■開館時間:午前10時00分~午後5時00分(入館は4時30分まで)
■休館日:月曜(9/17、9/24、10/8は開館、9/18(火)、9/25(火)、10/9(火)は休館)
取材・文/藤田麻希
美術ライター。明治学院大学大学院芸術学専攻修了。『美術手帖』