【サライ・インタビュー】

箱石シツイさん
(はこいし・しつい、理容師)

――理容師になって82年。今日も元気に営業中

「人生は根気と努力です。必要としてくれる人がいる限り、私は床屋を続けたい」

御年101歳。箱石さんは今も理容ハサミの準備を怠らない、腕の確かな現役の理容師だ。足腰はしっかりしていて、声にも張りがある。

※この記事は『サライ』本誌2018年11月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

──101歳で現役の理容師です。

「11月10日で102歳になります(笑)。私は他にできることがないですからね。16歳からこの道一本で、ずうっとやってきました。

昔からのお馴染みさんも来られなくなったり、お亡くなりになったりして、今、髪を切りに来るお客さんはだいたい月に5〜6人。若い方で50歳くらい、上の方は85〜86歳です」

──毎日、店は開けているのですか。

「開けていますよ。お客さんが来るか来ないかはわかりませんが、店を開けていれば、誰かしら寄ってくれて、話し込んでいきます。

ここから10kmくらい離れたところに老人ホームがあるんですが、以前はそこまで出張して皆さんの髪を切っていました。でも私も歳を取りましたからね、若い方に代わってもらいました。それでも、まだときどき頼まれるんですよ。去年も、入所している方の奥さんから“送り迎えをするので是非お願いしたい”と言われましてね。その方の旦那さんの髪を切りに行きました」

── 流行りの髪型もできるそうですが。

「習い性なんですかね、雑誌やテレビを見ていても髪型にすぐ目がいくんです。どんな髪型が流行っているのか、気になります。でも“流行の髪型にしてほしい”なんていうお客さんは今は来ませんけどね」(笑)

──シツイという名前は珍しいですね。

「本当は、シズエなんです。小さい頃は親も兄弟もシズエと呼んでました。でも、あるときに戸籍を見たらシツイになっていたんです。

私は栃木県那珂川町、昔は那須郡大内村といいましたが、その谷川地区の割と大きな農家の生まれで、5人兄弟の4番目です。この辺は言葉が訛っているから“イ”と“エ”が紛らわしい。多分、出生届を出した親も、受け付けた係の人もお互いに訛ってるから、シズエがシツイになってしまったのかね」(笑)

──なぜ理容師になったのですか。

「女はやがて、結婚して子供を産むでしょう。でも、もし旦那と死別したら女ひとりで子供を抱えて生きていくのに困るだろうから、何か手に職をつけておくのがいいということになったんですね。小学校を出ると、最初は村長さんの家の“ご新造さま”のところで行儀見習いを兼ねて住み込みで和裁を習いました。

そうするうちに、この近くの女の方が東京へ出て床屋をやっていると聞きましてね。両親と相談して“床屋をやってみようかな”と、軽い気持ちで東京へ出たんです。それが16歳のときで、満州事変の頃です」

──理容師の修業をしたんですね。

「店は浅草の吾妻橋の近くで、お弟子さんも3人いて、みんな14歳くらい。私より若いんですよ。皆さんまだ遊びたい盛りですからね、就業時間が終わると川べりに立つ夜店を覗きに行くんです。でも、私は少しでも早く皆さんに追いつこうと、3日に1回は誘いを断って、一所懸命に日本刀を研ぎました」

──なぜ日本刀を研いだのですか。

「その頃は髭を日本刀で剃ったんです。西洋剃刀が普及するまでは、鞘のない刃がむき出しの鉄の刀で髭を剃りました。髭が濃い方なら一度剃ってから、次に皮膚を引っ張りながら逆剃りをして、肌をつるつるにしました。

昔はご飯をお釜で炊いたでしょ。そうすると釜の底に黒い煤がつきますよね。その煤を髭に見立てて、古くなった日本刀で剃る練習をしました。刃こぼれしてきたら、砥石でまた切れるように研ぎます。それが理容師の修業の第一歩で、その研ぎの腕が私は結構よかった。それに、先生は故郷が同じということもあって、特別に可愛がってくれました。東京へ出てから4年後の昭和11年、理容師の試験に合格して免許を取得できました」

箱石(旧姓・斎藤)シツイさんが20歳の頃、昭和11年6月に受けた「美容術試験」の合格証書。戦前は、理容師の免許証は今の厚生労働省ではなく、東京は警視庁の管轄下にあったという。

砥石で理容ハサミを研ぎ、その切れ味をよみがえらせる。「今どきは床屋の西洋剃刀も替え刃になりましたが、私の時代は研ぎが命でした」

左は昔ながらのハサミ。小指を添える理美容ハサミ(右)と違い、使いこなすのが難しい。中央は使い込んで刃が短くなったもの。

──ご主人との出会いの経緯は。

「同郷の理容師の先生が、結婚されたのを機に店を手放されたので、別の床屋に勤めていたときのことです。いつも私を指名してくださる女性の方から“ 甥も床屋をやっているんだけれど、結婚してもらえないだろうか。そうしたら、あなたの希望通りの床屋の店を作ってあげる”と言われたんです。それで会って話をしてみたら真面目そうで、常識のある人でした。それが連れ合いになる箱石二郎です。もともとは南部藩(現岩手県)の家系で、明治の廃藩置県で東京へ出てきたそうです」

──ご夫婦で理容室を始めたのですね。

「昭和14年1月14日に結婚すると、同じくして新宿の落合で床屋の店を持ちました。

店は繁盛しましたし、子供もすぐに生まれましたが時代が悪かったんですね。昭和19年7月17日、主人に召集令状が届きました。明くる日に入隊、その明くる日が家族との面会で、その次の日にはもう戦地へ出立という、慌ただしさでした」

──そんなに急だったのですか。

「主人が家を出るとき、見送りの人がたくさん集まってくださったんですが、もう日本は負け戦でしたから軍歌も、万歳もありません。ところが、時間になっても主人がなかなか家から出てこない。私が店の2階へ上がってみると、主人がふたりの子を抱きかかえ、顔中を涙でいっぱいにしていました。3歳の長女は、生後間もなく小児麻痺になり身体の自由が利かない子でした。長男は生まれてまだ10か月でした。その子たちと別れるのがよほど辛かったのでしょう。私はもう居たたまれなくて“皆さんがお待ちくださってます”、そう言うのがやっとでした」

「終戦から8年間、家族3人で主人の帰りを待ち続けました」

「若い時分は、この店を開店する際の借金の返済と息子の学費を貯めるのに必死でした。今になれば、それも楽しかったと思えます」

──ご主人の戦地はどこだったのですか。

「どこへ往くのか、家族にも絶対言ってはいけなかったそうです。しばらくして、満州(現中国東北部)から葉書が2度届きました。“南京虫に齧られて夜寝られない”とあったので薬を手に入れて、煙草と一緒に送りました。そしたら“煙草はみんなで喫って美味しかった。南京虫の薬も助かった”という返事がきましたが、あとは音信不通でした」

──シツイさんは疎開をされたのですか。

「主人が兵隊へ行ったあと、長女は実家の両親に預け、私は落合の店を守ろうと長男を見ながら、半年間は頑張りました。でも、空襲がひどくなってきて、警報が鳴る度に電気を消すと、爆弾が落ちると大変ですから、子供を守るように上から覆いかぶさりました。子供は私が遊んでくれると思ったのか、きゃあきゃあ笑って喜んでいました。

昭和19年12月に郷里へ疎開し、終戦は那珂川町で迎えました。落合の店は昭和20年3月10日の東京大空襲で近くに爆弾が落ち、一帯が丸焼けになってしまいました」

──ご主人の消息はわかったのですか。

「満州の虎頭というところで、昭和20年8月19日に戦死したそうです。終戦から4日後でしたが、虎頭は満州でもかなりの奥地で、終戦を知らないまま激戦のなかで玉砕したと聞いています。日本の降伏後も戦闘を続けたソ連軍に包囲されたそうです。主人の死を誰も見たわけではないので、本当のことは私にはわかりません。

終戦から8年間、昭和28年夏に戦死の公報が届くまで、主人の帰りを家族3人で待ち続けました。家の横の細い路地を人が通るたび、足音に耳を澄ませました。この辺からも兵隊に行って、復員してきた人がいっぱいいましたからね。“今日は帰ってくるのかな、明日に帰ってくるのかな”と待ち続けました」

──切ない話ですね。

「遺骨だという木箱が届きましたが、遺骨は入ってませんでした。位牌なんでしょうか、板切れか何かが入っていて、箱からカラカラと鳴るような軽い音がしただけでした。

生きる気力が失せて、親子3人で心中しようと決めました。雨戸を閉め切り、真っ暗な家の中で娘を抱えて座りました。小学3年生になった息子が外から帰ってくると“これから3人で、お父さんのところへ逝こう”と言ったんです。でも、息子は“死ぬのは嫌だ!”って、もの凄い勢いで表へ飛び出して行きました」

──親子心中まで思いつめたのですか。

「父は戦後すぐ昭和21年に亡くなり、3年後に母も後を追うように亡くなりました。でも“主人はきっと帰ってくる”、それを支えに何とか頑張っていたんですが、その望みが絶たれてしまった。本家は姉が婿をとっていましたので頼れないことはなかった。でも、思いつめると人間は何も見えなくなるんですね。

結局、息子から心中騒ぎを知らされた本家の姉の子がすっ飛んできて“何てこと、するんだ!”って、死ぬのを止めてくれたんです。

つくづく死なないでよかった、と思います。子供を殺して犯罪人になるところでした」

「日々無事に、なんでもなく過ごし、ぽっくり死ぬのがいいです」

──今の理容室を開かれたのはいつ頃ですか。

「親子心中を思いとどまってから、すぐ後のことです。私がやれることは、やっぱり床屋しかありませんからね。理容室の体裁を何とか整えて開店しました。幸い、椅子と道具一式は疎開のときに持ってきてました。鏡は空襲で焼けた店から拾ってきた、割れて端っこだけ三角形に残っていたので間に合わせました。それでも開店したとたんにお客さんが押し寄せてきて、お昼ご飯を食べる時間もないくらい。“東下りの床屋だから腕がいい“と評判で、毎日が大忙しでした」

──昼ご飯を食べる暇もないほどですか。

「お客さんがひっきりなしに来て、お昼ご飯は小学生の息子が用意してくれたものを立ったままかき込むだけ。それも髭を剃るお客さんに蒸しタオルを乗せて、そのタオルが冷めないうちに食べるんです。だから、おかずは骨のある魚とか、固いものは禁止です。急いで飲み込むと、喉につかえちゃうでしょ(笑)。

床屋はシャンプーをするのに水を大量に使いますが、その頃はまだ水道がなくて、少し先の井戸まで手桶で水を汲みに行きました。それも、小学生の息子の仕事でした。店をやっていけたのは息子の協力があったからです」

この日、宇都宮から訪れた長男の英政さん(75歳)の散髪を行なう。テレビ局に勤務した英政さんは美容師の資格も持つ。「だから、私の髪は息子に頼みます」

──いつ頃まで忙しかったのですか。

「ずっと忙しかったですね。特に昭和37〜38年頃がいちばん凄かった。お客さんを見込んで、ここから2km圏内に同業者の店が2軒できたんですが皆さん、うちへ来てくれました。

散髪だけでなく、農家のお嫁さんの化粧や着付けもしました。亡くなった人の“死に化粧“を頼まれたこともあります。子供さんの入学式や卒業式には、若いお母さんの着物の着付けと化粧もよく頼まれました。私の着付けは“苦しくないし、楽で着崩れしない”って喜ばれました。今でも頼まれればサービスでやってあげます」

──今はひとり暮らしですね。

「身体が不自由な娘は、18歳のときに家を出て自立しました。身体に障害があっても家族に頼らず、ひとりで生きていくと言いましてね。今は宇都宮(栃木県)で重度障害者の自立を支援するNPO法人を作って活動しています。娘と同じ頃、息子も高校と大学へ進学するために家を出ました。それからはずっとひとり暮らしです」

──寂しくはないですか。

「息子が“一緒に住まないか”と何度も言ってくれましたし、孫やひ孫の顔を見るのも楽しいんですが、やっぱり勝手知ったる今の暮らしがいちばん気楽でいいです。それに、ここで床屋をしていれば、まだ私の腕を必要としてくれる人がいますからね」

──日課にしていることはありますか。

「朝起きると、仏壇に手を合わせて亡くなった主人の写真に“今日も無事に過ごせますよう見守ってください“とお願いします。夜は眠る前に“無事に過ごせました。有り難うございます“とお礼を言ってから床に入ります。

そして起きてから1時間、寝る前にも1時間、自己流の体操をします。お風呂の中でも手足の体操をします。あとはよく歩きます。家のすぐ前にある体育館の周りを何回も、ぐるぐる、ぐるぐると歩いています」

──毎日続けられるのが凄いですね。

「根気と努力。私の人生はそれしかないですからね。そうやって日々無事に、なんでもなく過ごし、ぽっくり死ぬのがいいです。

すぐ近くに、85 歳を超えた方々で、いつも手押し車で来るふたりがいましてね。その方たちから“箱石さん、私たちより先に死なないでね“って言われるんですけど“そんなにうまくはいかないわよ“って言い返すんです。だって、私のほうがふたりよりも15 歳以上も年上なんですからね」(笑)

庭の畑で各種の野菜を丹精。「私は畑仕事が大好きで、それが元気のもとにもなっています。ただ、この夏はさすがに暑過ぎて、あまり手がかけられなくて」

●箱石シツイ(はこいし・しつい)大正5年、栃木県生まれ。昭和7年、16歳で理容師修業のため上京。同11年、理容師免許を得る美容術試験に合格。同14年に同業の箱石二郎と結婚。夫婦で新宿の落合に理容室を開業。盛業だったが夫は出征。終戦後の昭和28年、その戦死公報を受けて郷里の現・那珂川町で「箱石理容室」(※栃木県那須郡那珂川町1588)を開店。その腕の確かさから“東下りの理容師”として評判をとり、今日に至る。

※この記事は『サライ』本誌2018年11月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/佐藤俊一 撮影/宮地 工)

 

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