「七代目圓生」の名跡をいったい誰が継ぐのか、という問題が落語界のみならず、ワイドショーまで賑わわせたのはほんの数年前のこと。襲名問題は結局、「先送り」ということで決着したようですが、没後30年を経て、なおそんな話題が出るのは“六代目の圓生がいかに名人であったか”の証です。
六代目三遊亭圓生(本名・山崎松尾)は、1900年の9月3日に大阪で生まれ、5歳の頃には義太夫語りとして寄席デビュー。9~10歳頃に早くも落語家に転向しました。落語の世界では、生まれた年に関係なく、入門した年がモノを言います。早くに落語家となった圓生は、10歳も年上の古今亭志ん生を「志ん生くん」と呼ぶほど芸歴は長く、噺の数も多かったのですが、なかなか人気が出ません。一時は落語家をやめて、踊りの師匠に転向するための準備までしていたようです。終戦間際には、慰問団の一行として満州(現・中国東北部)へ渡り、志ん生とともに死線をさまよいました。
命からがら帰国した後、志ん生は一気に寄席の人気者となりましたが、圓生は対照的に、売れない日々が続きます。芸に手応えを感じ始めたのはやっと昭和30年頃、つまり55歳の頃からだと、自伝『寄席育ち』に記しています。
その昭和30年から44年まで、人形町末廣という寄席で開いていたのが「圓生独演会」です。ここで圓生は、1時間をゆうに超える大作・名作を次々と初演。会は落語通の評判を呼び、圓生は古典をじっくり聴かせる「ホール落語」の主役となっていきます。
圓生は人形町末廣の独演会を、末廣閉場(昭和45年1月20日)の直前まで15年間欠かさず続け、計76席を口演しました。その場に立ち会った観客はいま、80歳前後に達していますが、みな口を揃えて、自分が生涯に聴いた落語のなかでも最高の部類だと証言しています。「芸は上り坂を聴け」とよく言われますが、この独演会こそ間違いなく、戦後最高の「上り坂の芸」だったといえるでしょう。
昭和35年、人形町末廣の六代目三遊亭圓生(撮影/金子桂三)。
しかし、その場に立ち会えなかった(間に合わなかった)中年~若年の落語ファンにとっては、これは先輩ファンの自慢話のネタに過ぎません。「オレは人形町の圓生を聴いたぞ」というのは、黄門さまの印籠のようなもので、それを前にしては「ははぁーーー」とひれ伏すしかなかったわけです。
ところが幸運にも、この独演会を圓生は、当時まだ高価だったテープレコーダーを購入して自ら録音していました。遺された音源は全部で25席。そのうち12席はかつて、カセットテープとして発売されました。別の2席はLPとなり、2000年代に入ってCD化されました。が、残る11席はまったく商品化されることなく、ご遺族のもとに大切に保管されています。今回、ご遺族の全面協力を得て、それらも含めて人形町末廣で開催された圓生独演会の全貌がわかるボックスセットが、ついに日の目を見ることになったというわけです。
商品化されていない11席のテープのうち、2席は録音不良で噺の内容すらつかめない状態でしたが、残る9席は状態もよく、初商品化に漕ぎ着けました。既発売の14席についても、圓生自身が録音したテープから直接、デジタル化。既発売のカセットやLP・CDではカットされていた、白湯を啜る音や咳払い――つまり圓生の生の高座の「間」まで、ノーカットでCDに収録しています。外を走る都電の音、近所の犬の鳴き声も、人形町末廣の風物詩として楽しんでいただけます。
こうして収録できた音源は、昭和36年から44年末までの計23席、CDにして16枚、計1089分。うち初商品化が9席。すべてノーカット・無修正です。これを聴かなければ、昭和の落語は語れません。名人の高みへと一気に駆け上がる、圓生60歳代の渾身の高座を、当時の観客と一体となって堪能してください。
■『落語CDブック 人形町末広 圓生独演会』(小学館刊)
CD16枚+書籍106ページ/化粧函入り
2015年10月9日(金)発売
定価/2万7000円(税別)
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