文/山本益博
江戸の古川柳に「握られて出来て食いつく鮨の飯」というのがあります。握り鮨は握りたてをすぐに食べるもので、時間がたっては美味しくないというわけです。
鮨職人の手で握られた鮨ですから、素手で食べた方が美味しいのは当然ですね。しかし、なかなか上手に鮨をつまめる方がいらっしゃらない。皆さん小さいときから自己流で食べてきたから、間違っていても直そうとしません。
江戸時代、屋台から始まった鮨は、握りの上に煮きり醤油が適量ひかれて目の前に差し出されました。穴子やはまぐりの上には、煮詰めといって、穴子の煮汁を詰めた甘いソースが塗られました。屋台ですから洗い物は少ないほどいいので、醤油の小皿はありませんでした。
ところが、職人が手を抜いて煮きり醤油を用意しなくなると、客は自分で握りに醤油をつけなくてはならなくなりました。
酢めしではなく鮨だねに醤油をつけるとなると、握りを返さなくてはなりません。この手順を繰り返すうちに、鮨だねを下に、つまり握りをひっくり返して食べる客が出てきました。聞いた話ですが、何でもひっくり返して食べていた客が、いくらの軍艦巻きを返して食べて、いくらをぼろぼろこぼしたとのことです。
煮きり醤油がひいてあれば、酢めしを下に、そのまま鮨をつまんでいただけばいいのです。その時、人差し指を使わず、親指、中指、薬指の3本の指で酢めしをそおっとつまんでいただくとまず失敗しません。端から見ていてもとてもエレガントです。
もし手ではなく箸で召し上がるのであれば、箸を御神輿の二点棒の如く、平行にして、酢めしの両脇からそっと持ち上げると、美味しく食べられます。
ちなみに、酢めしを下にして食べるのはなぜか? 握り鮨はご飯を美味しく食べる料理のひとつだからなのですね。
文/山本益博
料理評論家・落語評論家。1948年、東京生まれ。大学の卒論「桂文楽の世界」がそのまま出版され、評論家としての仕事をスタート。TV「花王名人劇場」(関西テレビ系列)のプロデューサーを務めた後、料理中心の評論活動に入る。
イラスト/石野てん子