取材・文/田中昭三
奈良時代まで「花」といえば梅のことだった。中国の影響だが、平安時代になると次第に花=桜に変わっていく。以後、桜は日本人の文化や生活に深く影響し、日本列島各地に桜の名所が生まれた。
東京では上野の桜が名高い。しかし江戸時代、いまの上野公園一帯は寛永寺の伽藍が建ち並んでいて、歓楽街ではなかった。むしろ飛鳥山が有名だった。
8代将軍吉宗(1684~1751)は、当時の幕府の財政悪化を建て直すために緊縮政策を取った。しかしそれだけでは人々の生活が息苦しくなる。そこで武士たちには文武両道を奨励し、庶民には遊興の地として飛鳥山に数千本の桜を植え、歌舞音曲の花見を許した。パッと遊び、また仕事に励みましょうというわけだ。
因みに水戸藩偕楽園に多くの梅が植えられたのは、幕末の戦いを見越し、戦時食を確保するため。梅と桜、同じ花なのにその役割は随分異なってしまったものだ。
取材・文/田中昭三
京都大学文学部卒。編集者を経てフリーに。日本の伝統文化の取材・執筆にあたる。『サライの「日本庭園」完全ガイド』(小学館)、『入江泰吉と歩く大和路仏像巡礼』(ウエッジ)、『江戸東京の庭園散歩』(JTBパブリッシング)ほか。
※本記事は「まいにちサライ」2012年3月29日配信分を転載したものです。
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